太田和彦氏 塩谷賢氏とのやりとり ritual/ceremony 忘却/創造

「演奏の音の長さを楽譜として再記述したら、まったく元の楽譜とは違っていた」 「楽譜という《忘却≒のりしろ》は、同一性のための資源となる」 「個々の演奏は決して同一でない。しかし楽譜という忘却により同一性は保たれる」  ツイートより: 「(※) ritual は ceremony に比べると慣習的なニュアンスが強い」 続きを読む
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太田和彦 @otakazu

専修大での『精神分析の倫理』読書会(55回目)、終了。今日も2段落進んだ。とても有意義な内容だった。けれど、これからツイートするのは赤ワインをがんがん飲みながら、塩谷さんに太田が「学位取ったのですが達成感がまったくないんですよね」相談にのっていただいたときのメモでございます。

2013-03-24 01:29:35
太田和彦 @otakazu

※基本的にすべて太田の記憶によるものなので、事実とは異なる場合があります。

2013-03-24 01:30:01
太田和彦 @otakazu

太「人生相談みたいですみません」塩「いつもそうじゃない」太「はい」塩「太田君はミーハーを極めれば良いんじゃない」太「いやそれは」塩「そもそもなぜ達成感がないの?」太「アカデミズムに与する自信がないと同時に自分が与しているイメージが持てず、…端的に魅力を感じられないからなんですが」

2013-03-24 01:38:08
太田和彦 @otakazu

塩「なぜ魅力を感じられないの」太「ritualとしてあれこれ考えることは好きなのですが、それをceremonyにすることに抵抗があって」(※) ritualはceremonyに比べると慣習的なニュアンスが強い。例文は英辞郎http://t.co/zTQcbCY7VS 参照。

2013-03-24 01:46:44
太田和彦 @otakazu

塩「宗教は基本的にritualの集積なわけだけれど、ritualをceremonyとして組織化するか否か、ceremonyから意味を析出させるか否かは各宗教で分かれる」太「はい」塩「なぜミーハーを極めろ、って言ったかわかる?」太「わかりません」塩「君が偶像崇拝に親和的だからだよ」

2013-03-24 01:53:36
太田和彦 @otakazu

太「でもミーハーも偶像崇拝も嫌なんですよ」塩「なぜ」太「身を晒していないというか、チキンレースに参加していないじゃないですか。参加していたとしてもかなり早くブレーキを踏むたぐいで…」塩「チキンレースの崖はどこだろう。それは本当に崖だろうか。そもそもどこを走っているのだろう」

2013-03-24 02:07:53
太田和彦 @otakazu

太「走っている場所は、日常的意味だと思います。崖はそれが通用しなくなる局面だと」塩「ritualは意味となりうるだろうか」太「いいえ、意味となるのはceremonyです」塩「つまり、チキンレースはceremonyという安全圏のなかでしか行われていないんだよ」太「メタチキンレース」

2013-03-24 02:19:24
太田和彦 @otakazu

塩「“チキンレースで崖に向かって走る空間”は、消えるべきはずなのに自分たちがそこに生きてしまっているから残ってしまっている。そして“崖”とは、残ってしまった“走る空間”の隣にあるもの、至ることができないものだ」太「“走る空間”が“崖”に先行する」塩「ミーハーは崖に憧れるんだよ」

2013-03-24 02:29:28
太田和彦 @otakazu

塩「2枚の折り紙で考えてみよう。2枚の折り紙をつなげるとすると“糊代”が必要になる。“チキンレースで走っている空間”はこの“糊代”で、“崖”とは“折り紙が1枚だけ”の部分だ。ミーハーは“糊代”として“もう1枚”に焦がれつつ、しかし“もう1枚”を創造できない」太「でも糊代ではある」

2013-03-24 02:35:29
太田和彦 @otakazu

塩「糊代であるとはどういうことか。AとBという折り紙をつなげる糊代は、AとBの違いを忘れなければならない。忘却によって初めて、糊代は同一性のための資源となる」太「よくわかりません」塩「楽譜と演奏を考えよう。個々の演奏は決して同一でない。しかし楽譜という忘却により同一性は保たれる」

2013-03-24 02:40:24
太田和彦 @otakazu

塩「プロのピアニストに楽譜通りに演奏してもらった。聴いていても申し分ない。ところがその演奏の音の長さを楽譜として再記述したら、まったく元の楽譜とは違っていたという実験結果がある。この結果からわかるのは“それでもある楽曲が同一性を保つには楽譜が必要だ”ということ。忘却と創造の関係

2013-03-24 02:47:05
太田和彦 @otakazu

太「糊代であること、ミーハーであることは創造と無関係なように思えますが」塩「オルテガが言うように、維持するとは創造し続けることなんだよ。創造しなければある状態を維持することはできない。この場合、糊代が創出するのは、糊代の幅ではなく、糊代によって貼られるもの。新しい空間だ」

2013-03-24 02:53:40
太田和彦 @otakazu

ツイートしながら入眠して、途中から物質として存在しないキーボードを物質として存在しない指先が叩いていた。

2013-03-24 07:06:17
太田和彦 @otakazu

以下、自分でも何を言われたかよくわからない箇条書き備忘。・ceremonyには、意味の側面と、ritualの集積としての実像の側面がある。この2つの側面、ceremonyの二重性は〈目的〉として(〈目的〉の内側で?)合致する。

2013-03-24 07:10:43
太田和彦 @otakazu

・ceremonyのとるもっとも典型的な形(?)が「社会」と「国家」。ナチズムの党大会や宣伝が特徴的なように、国家社会主義はceremonyと切っても切り離せない。バタイユのファシズム論は、ritualとceremonyの違いの指摘に費やされたし、ハイデッガーはそこが鈍感だった。

2013-03-24 07:20:43
太田和彦 @otakazu

・ヒュームは『人間本性論』を、彼の『英国史』の“糊代”として(異なるAとBの違いを忘れさせる同一性のための資源として)書いている。カントの3批判は“糊代”の幅の内側を扱った。カントの念頭にあったニュートン物理学、エネルギー論などの自然科学は、とても強い“糊代”となる。

2013-03-24 07:37:13
太田和彦 @otakazu

・ritualの感度について。当時64歳のクロソウスキーが『ニーチェと悪循環』を20歳年下のドゥルーズに奉げたのは、彼に一目おいていたからであると同時に、ドゥルーズが〈ceremonyとして組織化されないritual〉への配慮がないことが気がかりだったから?

2013-03-24 07:44:05
太田和彦 @otakazu

ritualの集積としての身体(肉体ではなく)、それが主題として扱われるのがメルロ・ポンティの「世界の肉 (la chair du monde)」をめぐる論考。 / ritualの集積としての反復。

2013-03-24 07:57:17

ここで言われている ritual には、同じメルロ=ポンティの《制度》概念も思い出す。廣瀬浩司氏の諸論考を参照。 http://bit.ly/SM6UGe

太田和彦 @otakazu

日本でritualを主題として扱うのは4コマ漫画。吉田戦車系(『伝染るんです』等)とあずまきよひこ系(『あずまんが大王』等)との2系統に分かれる。4コマ漫画のアニメ化に失敗するパターンとして、ritualを特定の意味に回収しようとするケースが多い。

2013-03-24 08:07:36