山本七平botまとめ/【今、なぜ「論語」なのか⑩】/「思いて学ばざる」ことの悲劇

山本七平著『論語の読み方』/今、なぜ「論語」なのか?】/「思いて学ばざる」ことの悲劇/46頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【「思いて学ばざる」ことの悲劇】それを踏まえて孔子は、次のようにも言った。 「子曰く、新しい流行の真似をするのは、害になるばかりだ」 「子曰く、異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ」(為政第二32)<『論語の読み方』

2013-03-20 15:27:53
山本七平bot @yamamoto7hei

②そしてこの句について宮崎市定氏は次のような解説を加えている。 「異端の異は、常態に対する異状の異、端は、根本に対する末端の端であろう。 これを流行と訳したのは、根本の大きな道は永久不変であり、そこからはみ出たものが時と共に浮沈するというのが儒家の思想だからである」と。

2013-03-20 15:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

③だが、これは儒家だけではない。 ある意味では西欧も同じであり、彼らはその学問の基本を自己の伝統に求めても、他に求めようとはしていない。 それが当然なのである。 まして、その社会の規範となれば、伝統以外にどこに求められようか。

2013-03-20 16:28:00
山本七平bot @yamamoto7hei

④伝統主義という言葉はしばしば伝統を絶対化し、その「訓詁(くんこ)」に専念して現実の社会を見ないという意味にとられる。 だがこの弊害は、実は最も”進歩的”とされているものにもある。 ということはすべての学問にはこの弊に陥る危険があり「マルクス訓詰学」まで存在するという。

2013-03-20 16:57:40
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤さらに、OECDの日本の社会学への批判を読むと、社会の現実に目をやらない「社会学訓詰学」もまた、日本には存在するらしいが、これらはいわゆる”伝統主義”の中にさえ入らない。

2013-03-20 17:27:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥だが、そういう訓詰学者と対比して孔子を見れば、孔子はまさに逆で、決して「象牙の塔」にいた人でなく、自分の考え方を何とかして現実の社会に適用し、それによって現実に機能させようとし、そのための就職運動を当然と考えている人であった。

2013-03-20 17:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦その姿はおよそ「学窓」に立てこもって「訓詰」に専念し世間を知らない学者のそれではない。 孔子が「学ぶ事」と、この点とをどのように考えていたかは…一口でいえば、それは「子曰く、学びて思わざれば、則(すなわ)ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二31)(続

2013-03-20 18:27:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧続>という、非常に有名な一句に集約されるであろう。 「学ぶだけで思索しなければ心がくらくても何も知り得ない。自分で考えるだけで学ばなければ落とし穴に落ちる」 の意味で、吉川幸次郎氏は「思索ばかりで本を読まない者はハッタリになる」といったような意味とされる。

2013-03-20 18:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨そして、宇野哲人は「思うて学ばず」はいまの若い人の通弊だと昭和四年に記している。 「学園騒動」のときの主役なども、ひたすら社会を思い、平和を思い、学問を思い、大学を思ってゲバ棒を振るったのであろうが、まさに「思いて学ばざれば則ち殆し」の例証をつくったにすぎなかった。

2013-03-20 19:27:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩また、その「落とし穴」に落ちたままの人も少なくない。 だが、これは今にはじまったことではなく、二千五百年の昔にも、昭和のはじめにも、すでに警告されていたことである。

2013-03-20 19:57:44