芦田先生のハイデガー「存在と時間」〜では、なぜエネルゲイア論はノエイン論なのか?

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芦田宏直 @jai_an

ハイデガーの「死への存在」としての人間も(単純ではないにしても)またそういった自己論の系譜に属している。あれこれの存在者は、何よりも「~のための」存在者のことであり、「~のための」は、結局のところ、現存在の自己「のためを思って(Umwillen seiner)」へと回帰する。

2013-03-26 00:10:21
芦田宏直 @jai_an

“常に既にそこにある”存在者は現存在の「自己」へと、自己の終わり(=「死への存在」)と関連している。

2013-03-26 00:10:36
芦田宏直 @jai_an

しかし、一方、「世界-内-存在」としての現存在は、存在者=世界的なものの「許に」ある。それが現存在が「世界の内にある」ということだ。現存在は、その意味では、存在者=世界的なものの許に自己を手放している。

2013-03-26 00:10:52
芦田宏直 @jai_an

「世界-内-存在」が、なぜハイフン付きで記述されるのか? 「世界」は「内存在」としての現存在に解消されはしないからである。

2013-03-26 00:11:20
芦田宏直 @jai_an

東大の渡邉二郎たちは、これを「煩雑」だと言ってIn-der-Welt-seinを「世界内存在」と訳したが、これでは、〈世界〉は、内存在としての現存在に還元されてしまう。渡邉たちのこの訳語では、レヴィナスのハイデガー批判やナンシーの〈共-現〉論を受け止めることが出来ない。

2013-03-26 00:11:39
芦田宏直 @jai_an

世界-内-存在が、ハイフン付きで記されるのは、世界は、存在(-存在)に解消されないということなのである。世界があるということと存在=現存在があるということとは等価なのだ。

2013-03-26 00:12:21
芦田宏直 @jai_an

「~のための」(フー・ヘネカ)とは、ナトルプ報告で言う「事実的な生」の「気遣い」=「動性」(フッサール的な志向性)を意味しているが、「事実的な生は、自分が配慮する世界の中に没頭する内に自分自身に対して次第に疎遠になっていく」。

2013-03-26 00:12:37
芦田宏直 @jai_an

そもそも1920年代初頭のハイデガー「アリストテレス講義」では、〈生〉の内実的な意味は〈世界〉と同義なものとして扱われている(85/61)。

2013-03-26 00:13:45
芦田宏直 @jai_an

「或るものに基づいてaus生きる」「或るもののためにfür生きる」「或るものに反してgegen生きる」「或るものをめがけてauf hin生きる」「或るものに依存してvon生きる」、これらの前置詞の多義的な使い方を告知している当の「或るもの」をハイデガーは〈世界〉と呼んでいた。

2013-03-26 00:14:01
芦田宏直 @jai_an

※ナチズムへのハイデガー荷担の象徴的な文献『ドイツ大学の自己主張』(フライブルグ大学総長就任講演1933年)の問題は、アリストテレスが「比喩的にしか語らなかった」ギリシャ的なエネルゲイアの議論をむしろこの中世以後の形而上学の二重性(存在-神-論)に…(続く)

2013-03-26 00:26:42
芦田宏直 @jai_an

(承前)…、ハイデガーが自ら狭めていることが原因。「西欧的な人間は、おのれの言語の助力を得て、一個の民族集団から脱して立ち上がり、全体に於ける存在者に立ち向かうと共に、存在者としての存在者(存在者そのものとしての存在:註・芦田)を問いかつ把握する」などとハイデガーは昂揚している。

2013-03-26 00:27:11
芦田宏直 @jai_an

ハイデガーのナチ荷担は、民族主義かどうかではなくて、存在-神-論的な形而上学の根本体制の問題。形而上学のその二重性はたしかに『存在と時間』の色彩を色濃く統べているが、しかしその意義はこれに尽きるものではない。この議論は行論上これ以上の言及を避けたい。

2013-03-26 00:27:31
芦田宏直 @jai_an

ただし『存在と時間』は、エネルゲイアを中世的なactusとして変容させるのではなく(このエネルゲイア=actus論は、デカルト以降、ニーチェにまで至る、近代の「主観性の形而上学」に影を落としている)、「死への存在」としての現存在の時間性に見る。

2013-03-26 00:27:49
芦田宏直 @jai_an

ハイデガーが、アリストテレスのエネルゲイアに見出した時間性は、『存在と時間』公刊とほぼ同時期の講義(『古代哲学の根本諸概念』)に見られる。

2013-03-26 00:28:22
芦田宏直 @jai_an

「何か或るものを見たとき、今それを見ていると言う。見-た(Gesehen-haben)、ということによって見るという活動(Akt des Sehens)が終わるわけではない。この活動は、見-た(Gesehen-haben)ことによってまさに始めて本来的なものとなっている。

2013-03-26 00:28:44
芦田宏直 @jai_an

これに対して他の運動様式、聞く、歩くなどは、それらのテロスが達成されれば終わりになる。これらは目標に向かっていたまさにその時にだけ、現実的である。

2013-03-26 00:29:03
芦田宏直 @jai_an

これに対して思惟すること(ノエイン)は、その本質に従えば、絶えず活動しているものであり、しかも活動としてそれだけで完結しているものであり、その上、活動が完結している限り、本来的にある。

2013-03-26 00:29:23
芦田宏直 @jai_an

…思惟(ノエシス)は何か或るものに向けられるのだが、ここではその向けられる先は、ただ自分自身でしかありえない。

2013-03-26 00:29:45
芦田宏直 @jai_an

なぜなら、この最高の存在者(das höchste Seinede)は、『思惟の思惟』(『形而上学』第12巻第7章)、自己自身を純粋に知ること(das reine Wissen um sich selbst)である」(328/22)。

2013-03-26 00:30:01
芦田宏直 @jai_an

この「思惟すること(ノエイン)」の「見-た(Gesehen-haben)」という現在完了性が『存在と時間』における「現存在の視(die Sicht des Daseins)」(146)、…(続く)

2013-03-26 00:30:32
芦田宏直 @jai_an

(承前)…「存在論的透視性(ontlogische Durchsichtigkeit)」(333)と言われているものである。

2013-03-26 00:30:55
芦田宏直 @jai_an

もちろん「配慮」(Besorge)=「環境世界」(Umwelt)の視(Sicht)におけるumsicht(配視)、顧視(Rücksicht)なども『存在と時間』の視(Sicht)テーマであるが。

2013-03-26 00:31:31
芦田宏直 @jai_an

ハイデガーが、ノエインの視覚的解釈を退けるのは、プラトン的なイデア説(見相論)をそのままには受け取れないからだろう。

2013-03-26 00:32:15
芦田宏直 @jai_an

だから、配慮(Besorge)、気遣い(Sorge)は『存在と時間』におけるノエイン=エネルゲイア論である。

2013-03-26 00:32:33