賀斉の昇進と呉での立ち位置
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2012-12-26 21:25:13賀斉が建安16年に侯に封じられてる。孫氏以外では徐琨が一番早いんだけど、徐琨は親族だから仕方がない。それ以外の配下では一番早い。
2012-12-26 21:49:10長江の沿岸に駐屯して扶州から皖までを督したとなっている。皖っていえば廬江。当時の廬江太守と言えば呂蒙。それに周辺を仕切ってたのは孫皎。呂蒙と孫皎は無視っすか?
2012-12-26 22:05:32建安21年には濡須の戦いが建安22年までまたいでるから、建安21年に皖周辺の督になったのなら濡須の戦いに出てないとおかしいよね。
2012-12-26 22:11:00予想としては、賀斉が安東将軍・山陰侯で皖までの督になったのは建安24年以降のことだと思う。何故かって言うと、あの辺の督になるのは呂蒙や孫皎が死んだ後だと思うから。
2012-12-26 22:15:11それと、多分。建安21年(216)の反乱討伐は、その年で討伐完了しておらず数年越しの出来事だったんじゃないかなと予想します。
2012-12-26 22:17:56@korekorebox 呂範が扶州から海までの監督を任されたのとセットで、賀斉の昇進・封侯も220年の武昌遷都時の事なのかもしれませんね。
2012-12-26 22:20:59孫権が建業に還都したのは、黄武年間に揚州を任せてた賀斉と呂範が死んじゃったからか。曹操が夏侯惇に先立たれるようなものか。でも呂範=夏侯惇はしっくりくるけど、賀斉って孫権の股肱の臣という感じがしない。でも揚州での地位は呂範、朱治に並ぶ。強大な山越軍団を率いていたからとか?
2012-12-26 22:25:12【賀斉伝より】「丹楊三縣皆降,料得精兵八千人。★拜安東將軍,封山陰侯,出鎮江上,督扶州以上至皖。」 ★の部分は、大概つなげて読まれるけれど本当は数年の開きがあると見る(ノ)゜Д゜(ヾ)ムニムニ
2012-12-26 22:27:03@daradara3594 朱治が呉郡を押さえてたように、賀斉が会稽を押さえてたんじゃないかなぁと何となく思い浮かべてるけれど、納得させられるほどのものが見出せないんですよね(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2012-12-26 22:31:13@korekorebox 先程、お菓子っ子さんに指摘してもらったのですが、賀斉は孫策の故吏でした。虞翻と並んで孫策に登用された会稽の有力豪族って所でしょうか。孫権の代になって明暗分かれましたが。
2012-12-26 22:33:27@daradara3594 父親が県長にまでなってて、孫策によって孝廉に上げられる前に県長代行をしてるくらいですから結構な有力豪族ですね(ノ)^ω^(ヾ)ムニムニ
2012-12-26 22:37:33@sweets_street 地方の県令歴任→山越狩りで部曲ゲット→前線で活躍って出世コースは朱然、朱桓、陸遜ら有力子弟と同じですね。賀斉は叩き上げの☆と書いたけど考え直さねばw
2012-12-26 22:44:30