【三国志】建安二十二年~二十三年 武都攻防戦

劉備による漢中攻略戦の前哨戦として行われた武都での攻防戦について語る。 呉蘭や雷銅という地味な面子のせいで軽く見られるが、意外に重要であるという話
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漢中攻略戦における武都攻防について

Jominian @Jominian

故道というのは、やはり下弁を経由し、上禄から東に転じる道に思える。沮からまっすぐに北に出る道は、主たる街道足り得ないくらい険しい

2013-04-05 20:57:01
Jominian @Jominian

さて、故道の経路を規定できれば、呉蘭たちや張飛ら、更に曹休らの意図も見えてくるだろう

2013-04-05 21:01:25
Jominian @Jominian

呉蘭の救援に張飛が派遣された時の形勢。下弁の去就がどちらかは不明だが、どちらであっても戦略的な状況は変わらない。曹休らは呉蘭を破る必要があり、呉蘭らは存在するだけで目的を達成し得た http://t.co/0mU7SHrECZ

2013-04-05 22:18:38
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Jominian @Jominian

呉蘭らが故道に陣取っている限り、曹操軍は夏侯淵に対する効果的な支援はできない。対して、蜀軍は故道を押さえるだけで、陽平関に居る夏侯淵を孤立させ続けることができる。状況は劉備に有利である。圧倒的に

2013-04-05 22:24:56
Jominian @Jominian

なぜ張飛らが派遣されたか?恐らくそれは、伝え聞いた曹洪軍の規模が、呉蘭らだけで抑えるには大き過ぎるものだったからであろう。呉蘭ら単独で抑えさせれば、早晩突破され、夏侯淵と魏軍の連絡が回復し、故道も曹操側に押さえられることになる

2013-04-05 22:26:39
Jominian @Jominian

張飛は関城より故道を通り、下弁付近で曹洪らと対峙する呉蘭らの支援に向かった。しかし、直接的な支援ではなく、固山へ向かって曹洪らの後ろから故道に出る方法をとった

2013-04-05 22:32:00
Jominian @Jominian

これは、一つには張飛らの戦力の小ささが理由にあるだろうと考える。当時の劉備は戦力が足りず、諸葛亮に追加で兵を派遣するよう要請するほどだった。恐らく夏侯淵の戦力が大きく、曹洪らに十分な戦力を回す余裕がなかったのだろう

2013-04-05 22:34:05
Jominian @Jominian

いかに張飛らが合流したと言っても、戦力が足りないのでは結局押し負ける。だから、曹洪らの後方に回り込んでかく乱する方法を選択したのだろう

2013-04-05 22:36:33
Jominian @Jominian

張飛らが後ろに回り込もうとしていると知れば、慎重な将ならまず張飛に向かうはずである。連絡線を断たれれば、大軍であればあるほど危険だからだ。或いは、兵を分けて、一方は張飛の、他方は呉蘭の相手に向かわせるだろう

2013-04-05 22:42:06
Jominian @Jominian

曹洪を撃破するだけの戦力を有さない張飛からすると、曹洪が軍を分けるか、或いは自分に向かってくる方が都合が良い。呉蘭軍と合体して、曹洪らの軍に目標を絞らせるよりも

2013-04-05 22:46:39
Jominian @Jominian

仮に曹洪が軍を分ければ、その分遣軍の規模によっては、張飛らで撃破できるかもしれない。また、張飛らで手に負えないとしても、遅滞行動で時間を稼ぐことはできる。そして、曹洪が張飛に戦力を割けば割くほど、呉蘭らは彼我の戦力差をこちらに有利にできる

2013-04-05 22:50:05
Jominian @Jominian

曹洪が対張飛に戦力を割きすぎるとどうなるか?呉蘭を撃破できないほどに手持ちの戦力が減れば、曹洪本来の目的を達成するのは張飛を何とかしてからとなり、それだけ夏侯淵の孤立が続く。そして曹洪は、呉蘭を撃破しなければ目的は達成できないのだ

2013-04-05 22:58:04
Jominian @Jominian

かと言って、張飛を無視すれば、曹洪らの連絡線は遮断される。早急に呉蘭らを撃破出来れば良いが、呉蘭を攻めきれないなら、敗北の危険性が浮上する。

2013-04-05 23:00:36
Jominian @Jominian

曹洪からすれば、張飛がどれだけの戦力を有しているか分からない。だから張飛を簡単には無視できず、諸将の議論は紛糾した

2013-04-05 23:03:23
Jominian @Jominian

「呉蘭撃つべし」と喝破したのは曹休だ。確かに彼の言うことは正しい。曹洪の目的は呉蘭の撃破と排除であって、張飛の撃破ではない。陽平にて連絡線を断たれた夏侯淵を救うのに、慎重になり過ぎてはいけない。作戦は一刻を争うからだ

2013-04-05 23:07:36
Jominian @Jominian

しかしながら、全軍で呉蘭に向かうと言うことは、迅速に呉蘭を撃破できる自信がなければ危険だ。曹休にはそれがあったのだろう。また、自己の機動を喧伝する張飛から、その戦力が大きなものでないことを読み取ったのかもしれない

2013-04-05 23:10:50
Jominian @Jominian

この戦いの功績を誰に帰するかと言えば、衆議を一刀両断し、曹洪軍全軍で呉蘭に向かわせた曹休と、迅速に呉蘭を撃破した魏軍の指揮官だろう。そして、恐らく撃破したのは曹洪

2013-04-05 23:15:18
Jominian @Jominian

まあ、戦闘についても曹休が指揮した可能性はあるが、その辺は分からないので言及はしない。何にしても、曹休の判断力と、曹操軍の指揮官の戦闘の巧みさ、それと呉蘭らの不甲斐なさが、あの勝利をもたらし、夏侯淵を救ったのだろう。

2013-04-05 23:18:58
Jominian @Jominian

曹洪らには呉蘭を撃破しなければいけない理由があったのだから、呉蘭らは防御していれば、曹洪らは勝手に攻撃してくれたはずである。鄧艾が諸葛瞻を攻撃したのと状況は似る。有利な防御側を占めながら、あっさりと負けた呉蘭らは、批判を免れ得ないだろう

2013-04-05 23:21:00
Jominian @Jominian

呉蘭らが撃破され、張飛が退いて以降、劉備軍の故道を抑えようという動きは、陳式が馬鳴閣道より夏侯淵の後方を遮ろうとしたことくらいである。これさえも、時期が明確でなく、ひょっとしたら呉蘭が負ける前かもしれない。

2013-04-05 23:25:15
Jominian @Jominian

結局のところ、故道を維持できなかったことが、夏侯淵との対陣を長引かせることとなり、定軍山の戦いへの流れを作った。建安二十二年の冬に派遣された呉蘭らは、翌建安二十三年三月までには敗れている。長くても四ヶ月程度だ。これがあと数ヶ月長引けば、夏侯淵は降伏せざるを得なかっただろう

2013-04-05 23:30:43
Jominian @Jominian

夏侯淵が陽平関で孤立したまま降伏していれば、定軍山の戦いは起こらず、ひょっとしたら夏侯淵は死ななかったかもしれない。曹休は間接的に夏侯淵を殺したと言えるかもしれないね。

2013-04-05 23:32:21

@YinJingren 殷景仁さんとのやりとり

殷景仁 @YinJingren

@Jominian ちなみに楊守敬『水経注疏』に引かれる諸葛亮「與兄瑾書」には、「有綏陽小谷,雖山崖絶險,溪水縱横,難用行軍,昔邏候往來,要道通入,今使前軍斫治此道,以向陳倉,足以扳連賊勢,使不得分兵東行者也」とあります。

2013-04-05 21:39:24