江戸城が風水に基づいて作られた話はガセっぽい?という話
江戸城を徳川家康が増築し始めたのは1590年だが、その時の都市計画について「岩渕夜話」「慶長見聞集」等によってみてみると、「ボロボロの城だったのでとにかく住む所を作った。屋根は飛州ぶきなどである。小身の侍を城の近所に置いた」とあるくらいで、風水など気にした形跡はサラサラない
2013-04-13 08:11:57「岩渕夜話」「慶長見聞集」を解釈した山本七平は、「屋根は飛州ぶきだというが、この当時の江戸城は終戦直後のバラック程度のものだったと考えられる」と述べており、とにかく粗末だった
2013-04-13 08:13:22その時の普請奉行は本多正信で、彼は昼夜兼行の工事の現場立会までこなしており、周囲から恐れられたが、この人は浄土真宗の講義が出来た人で、今でも彼が講義をしていた寺が浅草にある。
2013-04-13 08:14:41ところが、浄土真宗は「風水や日の吉凶を気にする人が多いことは悲しいことだ。仏教ではそんなことは気にすべきではない。」といい、迷信を嫌うことでは仏教でも随一といえる宗派で、その宗派の人物が風水説に基づいて江戸を作ったなんて、悪い冗談みたいだ
2013-04-13 08:16:361603年の第二期工事からは築城の名手といわれた藤堂高虎が設計に加わるが、なんとこの人は、自分が風水をよく知らないので一旦城の設計を辞退しているんだよね
2013-04-13 08:19:30村井益男氏の「江戸城」に見える高虎と家康の会話 家康「江戸城の縄張りを命じる」高虎「え、オレ全然風水知らないんで、大丈夫ですか」家康「関係ないよ。お前みたいのがやればいいんだよ、おう早くしろよ」高虎「あざっす」 図を引いて持っていたら家康があれこれ加筆して都市計画が決まったという
2013-04-13 08:21:41ちなみに、この頃、風水に詳しいと言われている天海は家康の配下ではないです。天海の登場は1608年で、第二期工事は1603年に藤堂が縄張りを引いて既に始まっている
2013-04-13 08:22:561603年の工事は神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っているんだけど、これは風水的に言えばありえない工事で、加門七海氏も「こんなバカなことを風水をわきまえている人たちは絶対にしないので多分裏がある!」と主張しているが、裏も何もない、気にしてないだけ
2013-04-13 08:24:40江戸城の北部にあった台地、神田山は風水的には気が来るすごく重要な土地で、そこをアボーンするのは大凶なのだが、家康はどうでもいいと思っていたんだね。それより都市計画のほうが大事だった。
2013-04-13 08:26:07風水を知らない藤堂高虎にやらせたのは、アホな風水師からガタガタ言われて頭にきていたのかもしれないね。鬼門に当たる橋を指摘されて、「どうでもいいじゃねえか!」とキレたらしいし
2013-04-13 08:27:27そもそも天海が風水を知っていたという証拠などどこにもないわけですよ。実は。彼は元々天台教学と倶舎論・唯識説の専門家で、スマナサーラ長老が最近訳している原始仏教の心理学の研究を奈良でやっていた人ですね
2013-04-13 08:29:02天海が風水を学んだという話は、天海の専門的な伝記「天海大僧正」にはどこにもありません。彼が頭角を現した理由は、「アイツ論戦に強いじゃん」という他の坊さんからの評価。
2013-04-13 08:30:19というより、天台教学と倶舎・唯識なんて迷信と全然関係ないんだけど、どこで風水の話が出てきたんだ?なんか、昭和のオカルト系の人らが「天海は密教の大家だから風水とか呪術とかなんでも出来たんだよ!な、なんだってー」的にコジツケたんじゃないの?
2013-04-13 08:32:14そもそも天海が密教の大家なのかはかなり怪しいのではないか。天台教学は法華経の解釈を行う哲学で、加持祈祷とあまり関係ない。勿論護摩ぐらいはやろうと思えば出来るだろけど、こういう学僧が呪術をするかというと案外しないよね
2013-04-13 08:34:03天海の法力を示すエピソードは1593年の常陸の国江戸崎での雨乞いだけです。でも雨乞いなんか栄西でも道元でもやるし、出来たからスゴイ法力があるってえわけでもないだろう、マニュアルもあるんだし
2013-04-13 08:35:45道元は呪術否定派ですが、近所の農民が困っていた時にはちょくちょくやってますね。記録見る限り龍神への祈祷を読経と太鼓でやっただけだけど、雨は降ったみたいね
2013-04-13 08:37:29江戸城の風水を大々的に言い出した加門七海さんも、余りにも鬼門除けの寺社と江戸城の位置が合わないので、「江戸城って、風水関係ないんじゃ…?!くやしいっ!絶対見つけてやる!」とか言ってますね。
2013-04-13 08:40:17そもそも、鬼門除けの寛永寺と目黒不動尊(この二つは記録に鬼門除けとして出てくるのでほぼ確実)は、1622年、江戸城がほとんど完成してから作っているので、元々は全然風水と無関係だったと思うね
2013-04-13 08:41:48加門さんは苦し紛れに昭和時代に金物屋が作った神社まで鬼門除け扱いしているが、あそこの神社は僕も取材というか見に行きましたが、ボロボロで、風水とか何の関係もないと思う
2013-04-13 08:43:48以上、村井益男『江戸城』講談社学術文庫、『東京市史稿』、山本七平『徳川家康』、加門七海『大江戸魔法陣』を元ネタにした連ツイでした。
2013-04-13 08:45:49あとと学会の一連の書籍も参考にしました。まあ、と学会の考証は古文献まで当たっていないのだけど、相当いい所ついてると思いますよ。加門さんは単に神社に一生懸命線を引いているだけですね。江戸だけじゃなくてどこの都市でも神社仏閣に線を引きまくれば六芒星ぐらい出来ると思う
2013-04-13 08:48:15江戸城の築城年表を「徳川実記」や三田村鳶魚・鈴木理生の説により作ってみました。 http://t.co/sUtPPOZJzS
2013-04-14 09:22:01年表を作ってみて唖然としたのは、本当に本多正信とか藤堂高虎は風水を気にしていないですね。というより、天海が寛永寺と目黒不動を整備するまでその手の話は都市計画の話題にすらなっていなかったことが分かります。
2013-04-14 09:23:40というより、そもそも論として、1615年までは江戸が首都になるかどうか幕府内でも流動的だったんですね。鈴木理生氏が指摘する通り、1603年の徳川幕府開府は伏見城だったわけで。大阪移転の話も出てますね
2013-04-14 09:25:23