【三国志】陰平橋頭攻防戦~諸葛緒の突破と剣閣への撤退~ 付陰平考
前置 陰平の価値?について
諸葛亮の第一次北伐において、武都は通り道以上の扱いではなかった。ところが、翌年の陳式の攻撃では、雍州刺史が救援に赴いている。この違いはどこからくるのか、考えてみる価値はある
2013-04-12 02:58:02恐らく、陳式が武都陰平を攻撃した時の主戦場は陰平だ。なぜなら、諸葛亮が建威に出ているからである。武都(下弁)周辺で戦闘をしていたなら、そう易々と建威には出れない。したがって、郭淮が守るべきものは、陰平にあったのかもしれない
2013-04-12 03:04:48蜀が陰平を経由して攻勢に出た例は殆どない。それもそのはずで、漢中から陰平に出るのは、険しい道を南に迂回しなければならず、魏に出るための優良な通路ではないからだ。雍州からも遠すぎ、魏からしても維持すべき大きな理由が見当たらない。少なくとも地図だけを見れば
2013-04-12 03:21:04陰平の戦略的価値については、改めてしっかり考えた方が良いかな。頭の中だけでは、材料が足りない。かと言って、PCを起動する気にはならない
2013-04-12 03:27:00陰平を地図で見て思うことは、白水の下流に位置しているという事と、白水の流域をその領域に含むということ。つまり、この水運こそが重要なのではないか?
2013-04-12 03:48:37白水の水運を以て、魏の支配の及びにくいより西方への攻撃を危惧したか。しかし、当時の魏にそんなことを考慮する事ができたかと言えば疑問である。むしろ、雍州西部の支配を確立する方が対策としては正しい。雍州の戦力で陰平を守る行為には無理がある
2013-04-12 03:56:20多分、陰平で徙民が行われなかったことが重要だったんだと思う。陰平には僅かながら魏に属する漢人が居住していたんだろう。ただ、太守が置かれてた形跡がないのが気になる。いずれにせよ、そのことで、雍州刺史郭淮は、陰平を救援しないわけにはいかなかった。その成否はともかくとして
2013-04-12 07:34:49陰平に魏の臣民がいたなら、それを、遠方で守りにくいという理由で救うことを拒否すると、そういう魏の姿勢を内外に示してしまうことになる。そうなれば、他の辺境の都市は動揺し、反乱や敵の侵攻に容易に門を開いてしまうようになる。それは今後の領土防衛に多大な不利をもたらす。特に雍州や涼州では
2013-04-12 07:41:19郭淮が武都陰平を救援した理由は、漢人の動向だけでなく、異民族に対する姿勢もあるのかもしれない。張飛や馬超が下弁へ出ると、その地の氐が協力したが、呉蘭らの敗北を受け、協力した部族と同一かは分からないが、氐が劉備に敵対した。弱いところを見せれば、容易に寝返るということだ
2013-04-12 18:07:52つまり、魏は武都や陰平まで効果的な戦力を送り込めないと伝われば、すなわち、蜀の思うままに行動させては、当地の異民族にナメられる。それが伝播すれば、雍州西部や涼州に飛び火し、今後の対蜀戦略上、非常に不利になる。郭淮はそれを嫌ったのかもしれない
2013-04-12 18:16:51諸葛緒の突破~橋頭での機動戦~
陰平橋頭険しいな。こりゃ迂回もしたくなる http://t.co/0tpiNhpYXS http://t.co/dnyplnILCY http://t.co/HBGsYu6kA4
2013-04-14 00:45:49しかし、下流がダムになってしまっていることで、陰平橋頭は現在の方が水かさが増していると考えられるから、三国時代はもうちょっと戦力が展開できる土地だったろうと思う。
2013-04-14 00:53:38陰平橋頭での攻防。陰平橋頭は南北共に険しい山がそびえ、容易にその後方へは回り込めない。その山を越えるような険しい道を選べば別だが、そうでないなら、孔函谷を北へ抜けた先の谷を通らないといけない。姜維の向かった北道とはそこだろう http://t.co/F7sip6Zi9A
2013-04-14 01:31:07@Jominian 姜維は北道に三十余里入ったところで、諸葛緒の後退を知って引き返した。この図で北道を三十余里進むと、陰平からの行程は100km近くなる。往復200kmである。諸葛緒を回避する一連の行動にしては距離がありすぎる
2013-04-14 02:55:59姜維が廖化と合流してから諸葛緒を回避したという前提が、まず違うのではないだろうか?そもそも、彊川口から白水江へ抜ける有効な道路がない。険しい道を進み、いくつもの山を越えない限り、彊川口から白龍江を下らずに陰平へ出る手段がない
2013-04-14 03:12:50