- Abraxas_Aeon
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!!! 盲点でした(´・ω・`) RT @Minority20: @iwri 威厳というか、いぶりぃさんの影響でややオタクっぽいイメージがあの画像についてしまいましたね…
2010-09-08 00:46:18@iwri でもエンデの思想とか殆ど無知だったのでこれは助かります。この調子でアブラクサスさんもレヴィナスとかさらにbot増やしてくれないかな~w 私もそのうちローティbotとか作るかもしれません。
2010-09-08 00:49:47@Minority20 普通、僕のように、エンデ自身の考え方(経済問題を別にして)とかに興味を持ってる人間自体が少数派だと思いますwこうやって多少でも宣伝できて、僕も嬉しいです。 ローティbotはあったら嬉しいですね、是非やって頂きたいです。
2010-09-08 00:55:06@Minority20 うむむw、レヴィナスは引用してもそれこそ一部分では何を言っているか解らない箇所が多いですよw。『全体性と無限』はまだ解るかもしれませんがw。『存在の彼方へ』は私では歯が立たないw。
2010-09-08 01:12:22@Minority20 確かに!文字数と内容を考慮しないといけないので、選定にも時間がかかりますしね…。僕も今回入力するのに、かなり読み直しに近い作業をしました(´・ω・`)
2010-09-08 01:13:55@Minority20 ただ、道徳・倫理好きということでしたら、レヴィナスは難解ですが、ハイデッガーやフッサールを仮想敵としつつ、存在論よりユダヤ的な倫理観を重視しているところがあると思うのですが・・・w。
2010-09-08 01:19:37@Minority20 僕の場合、エンデはポイントがかなり絞れる上に対談含め文章が平易なので、拾い読みしながら入力してました。これがシュタイナーとかだったら、完全に途中で力尽きましたねw
2010-09-08 01:19:44@Abraxas_Aeon ハイデガーやフッサールが敵視されてるのですか。ユダヤ的倫理は珍しいので興味深いですが、珍しすぎて無知ですね…w やっぱり入門書から読むべきだなぁ…
2010-09-08 01:21:42@Minority20 敵視というと強くなっちゃいますか、レヴィナスは彼らから学んでそれを批判的に乗り越えようとしたわけで。存在論より倫理でと。一応『存在の彼方へ』は途中まで読みはしたのですが、道徳・倫理については色々と思わせるものはあります。基督教と比較してみるのも面白いです。
2010-09-08 01:30:40@Abraxas_Aeon 「他者」だとか「顔」だとか「無限の責任」だとか、「どM好みの哲学」だとか、そういう断片的なキーワードや情報は耳に入ってくるのですがね…
2010-09-08 01:42:43ちょwww RT @Minority20: @Abraxas_Aeon 「他者」だとか「顔」だとか「無限の責任」だとか、「どM好みの哲学」だとか、そういう断片的なキーワードや情報は耳に入ってくるのですがね…
2010-09-08 01:47:15@Minority20 あ、思い出しました。『エゼキエル書』と併読すると、「責任」などについてはある程度読める箇所があるのではないかとも思います。
2010-09-08 02:05:34第三十年の四月五日のことである。私はケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、その時天が開かれ、私は神の顕現に接した。『エゼキエル書』1章1節
2010-09-08 20:20:01[中略]これが主の栄光の姿の有様であった。私はこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、私はその声を聞いた。『エゼキエル書』1章28節
2010-09-08 20:28:41彼は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。私はお前に命じる。」彼が私に語り始めた時、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は語りかける者に耳を傾けた。『エゼキエル書』2章1節
2010-09-08 20:29:26レヴィナス的に解釈してみよう。レヴィナスは「対格」という言葉で主体の受動性を強調しようとする。エゼキエル書のエゼキエルは、神の顕現に接した。エゼキエルは呼ばれる。呼ぶのは他者=主であり、それに対して主体=エゼキエルが応える。この主体は「対格」であると言える。
2010-09-08 20:44:11主は言われた。「人の子よ、私はお前を、イスラエルの人々、私に逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様、私に背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに。私はお前を遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。…
2010-09-08 21:02:08彼らが聞き入れようと、また、反逆の民なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。人の子よ、お前はあざみと茨に押し付けられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らの前にたじろいではならない。」前掲2章3~6節
2010-09-08 21:07:51「対格」と併せてみなければならないのが「告発」である。「対格」(accusatif)は、「告発する」(accuser)から派生した語。エゼキエルという主体は、徹底的に「対格」でありつつ「告発されたもの」として描かれている。デカルトの「我思う、故に我あり」的な主体は描かれていない。
2010-09-08 21:34:00エゼキエルは「対格」であり、何の過ちも犯していないのに告発され、非難される。しかも、彼は前掲の文章に続いて、預言者としての務めを果たせと「責任」を負わされる。レヴィナスにおける他者(神)と私(エゼキエル)の関係は、相互的なものではなく、私は他者に告発される「対格」なのである。
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