三国志の王允の子孫が南朝で武将やってた件

三国志の王允といえば、『三国志演義』で貂蝉の養父として登場する有名人ですが、一般には「董卓の残党に一族皆殺しにされた」とされています。ところが、残党の襲撃を逃げ延びた子孫が複数おり、中には南朝宋の大物武将にまで上り詰めた人物までいるのです。正史『後漢書』『三国志』『宋書』を元にまとめました。
9
松平俊介(東龍) @matu2syun

「十句観音経」のことを調べていて、その流れ『宋書』王玄謨伝を読んで吹くw この人思いっきり王允の子孫じゃないかww なぜ南朝にいるw

2013-04-28 10:26:06
松平俊介(東龍) @matu2syun

『宋書』王玄謨伝には、「王玄謨、字は彦德。太原祁人なり。六世の祖宏は河東太守・綿竹侯たり。従叔の司徒の允の難を以て、官を棄てて北(に)げ新興に居る(中略)と、其の自叙に云爾(しかいう)。」とありますな

2013-04-28 10:30:02
松平俊介(東龍) @matu2syun

その後に、王玄謨は子供の頃、「太尉の彦雲(王凌)の風あり」と言われていたといいますから、王允の子孫だと称していたのはほぼ間違いないでしょう(王凌は王允の甥)。

2013-04-28 10:31:42
松平俊介(東龍) @matu2syun

しかし、王允も王凌も一族皆殺しになっているのに、なんで子孫がいるのかというのはスゴイ話ですね。すごく生命力が強い一族なんだろうなあ。王玄謨も首チョンパの所を観音経のご利益で首の皮つながった人だし

2013-04-28 10:33:28
松平俊介(東龍) @matu2syun

後漢書王允伝を見ると、「長子の侍中・蓋、次子の景、定、及び宗族十余人は皆誅害せらると見えたり、唯だ兄の子の晨は、陵を脱して郷里に帰るを得たり。」とありますね

2013-04-28 10:41:46
松平俊介(東龍) @matu2syun

ただ王凌だの、王宏もこの時逃げているはずなので、後漢書の記述は割といい加減ですね(これに限ったことじゃないけどね)

2013-04-28 10:43:26
松平俊介(東龍) @matu2syun

ちなみに王凌は、三国志演義に登場しません。お陰で、コーエーの三国志ゲームには最近まで登場しませんでした。魏朝では総理クラスなのにひでえなあ。

2013-04-28 10:55:55
松平俊介(東龍) @matu2syun

コーエーの三国志ゲームは、蜀の武将はザコでも結構出てくるのですが、魏の武将は大物でも結構漏れがあるので、後半のシナリオでやると、「三国志2」当たりだと蜀のほうが強い

2013-04-28 10:57:12
松平俊介(東龍) @matu2syun

王玄謨は王允の兄、王宏の子孫ですね。王凌のおとっつぁんが誰か、なんと正史三国志王凌伝にも書いていませんので、王宏と王凌の関係は不明です。

2013-04-28 11:04:39
松平俊介(東龍) @matu2syun

王玄謨(おうげんぼ)という武将ですが、南朝宋(劉宋ね)の車騎将軍です。割と地味に強い。内政も出来る人ですね。

2013-04-28 11:14:20
松平俊介(東龍) @matu2syun

王玄謨を在野武将捜索で発見したのは南朝宋の太祖劉裕でして(割とマジ)、このヒトは劉邦の弟の子孫とも、項羽の子孫とも言われていますね 顔グラ→ http://t.co/8QIsm31iue

2013-04-28 11:17:04
松平俊介(東龍) @matu2syun

ちなみに、この劉裕というヒトは「学問には全く興味を示さず知っている文字は4つか5つほどしかなく、好きなものは博打」という、端的に言えば張飛という立派なドキュソでした

2013-04-28 11:18:26
松平俊介(東龍) @matu2syun

ところがこの劉裕先生が異様に強くてですね、なんかあると数十名の兵で数千人を破っちゃうという、武力も張飛なみの人だったわけですね

2013-04-28 11:20:20
松平俊介(東龍) @matu2syun

「敵武将の桓玄が朝メシを食っている時に数十人で突撃して桓玄を斬り捨てた」とかナンなんですかね…これ三国志で言ったら「袁紹を張飛が突撃して斬り捨てた」レベルの話っすよ

2013-04-28 11:22:58
松平俊介(東龍) @matu2syun

その劉裕が「お前スゲーよ」といって取り立てたのが王玄謨だというんですが、どう思ったんだろうw

2013-04-28 11:26:01
松平俊介(東龍) @matu2syun

ただ、劉裕が愉快な仲間たち十数名と暴れまわっていた頃の部下ではなくて、宋が建国してから仕官したみたいですね。劉裕の愉快な仲間たちは、劉穆之とか、「行いが悪く郷里で鼻つまみ者だった」諸葛長民とかですねw

2013-04-28 11:33:03
松平俊介(東龍) @matu2syun

文武に才能があったが、行いが悪く郷里での評判は挙がらなかった、劉裕が挙兵すると、長民は期日に間に合わず刁逵に捕らえられた、調子に乗って驕慢になり、政務に励まず、財貨や女性を集め大邸宅を築くなど、乱脈な行いで民衆を苦しめていた。最期は謀反を企んで仕事人に仕置きされてアボーン

2013-04-28 11:35:57
松平俊介(東龍) @matu2syun

というのが諸葛長民の極めて簡単な生涯ですww駄目だこの人ww 田中芳樹の「中国武将列伝」では、「劉裕兄貴が劉備なら、おいらは諸葛孔明だぜヒャッハー」とかほざいていたという話が出てましたが(やや脚色在り)、こんな孔明はいないだろ

2013-04-28 11:37:40
松平俊介(東龍) @matu2syun

話がそれましたが、王玄謨は劉裕没後に武将として頭角を現します。ところがなんと北伐(南朝宋は北朝の北魏と戦っていました)の時に、大敗を喫してしまいます

2013-04-28 11:43:13
松平俊介(東龍) @matu2syun

兵は散り散りバラバラになり、逃げ帰ってきた王玄謨は矢傷を負っていましたが投獄されます。牢屋では観音経ばかり読経しているような有様でした。元々この人はビッグマウスのところがありまして

2013-04-28 11:45:37
松平俊介(東龍) @matu2syun

北伐の上表文を度々出して、「北朝の兵は弱いから勝てるっすよ」とかほざいていたので余計にダメだったんでしょうね。ところが観音経読経のご利益か、弁護する人が現れて助かってしまいます

2013-04-28 11:47:13
松平俊介(東龍) @matu2syun

その後の王玄謨は反乱の鎮圧のエキスパートとして各地を転戦し、宋の重鎮になっていきます。南朝宋の皇帝は劉裕以来ドキュソが多く、王玄謨は涙を流して「刑罰を緩くして民衆をいたわりましょう」と諌めて少帝が激怒したことも在りました

2013-04-28 11:52:22
松平俊介(東龍) @matu2syun

王玄謨は厳格な人柄で、「王玄謨の配下になるなら五年の懲役のほうがマシ」という文句まで流行ったと『宋書』にありますが、南朝宋はならずもの政権ですから、まだ王玄謨は民衆を大事にしようという姿勢が見えるだけマシな人間だったのかもしれませんね

2013-04-28 11:57:57
松平俊介(東龍) @matu2syun

以上、宋書をななめ読みしながらツイートしました。大分読みは甘いです。脚色混じりですがご勘弁を。宋書王玄謨伝 http://t.co/4eRXJXcocm

2013-04-28 11:59:17
松平俊介(東龍) @matu2syun

あと、宋書武帝本紀は映画300なみの話が妙に続くので三国志クラスタはマジおすすめ http://t.co/6NvVy9pNyh

2013-04-28 12:12:47