永倉新八編剣術語り

神道無念流と斎藤弥九郎の人となりじゃ!
3
永倉新八 @nagakurashinsen

急遽だからなー纏まっとるかな。永倉新八です。以後良しなに。

2013-04-22 21:46:08
永倉新八 @nagakurashinsen

神道無念流、福井兵右衛門を開祖とする、が二代宗家の戸賀崎熊太郎の代まで隆盛を誇る事がなかったといわれるは右兵衛門が剛直、寡言沈黙な人物であった事と関係はないであろうな。

2013-04-22 21:52:47
永倉新八 @nagakurashinsen

下野国津賀郡藤葉で元禄十五年に生まれた兵右衛門が、神道無念流を創始する端緒を掴んだのは三十四歳、はじめは下野国惣社村の野中権内玄慶の道場に入門し、新陰流の流れを組むと言われる新神陰一円流を学んだのを皮切りに(新陰流は上泉伊勢守が有名)諸国を廻り技を錬磨した兵右衛門だったが、

2013-04-22 22:03:59
永倉新八 @nagakurashinsen

未だ開眼には至らず、そこで信州戸隠山の飯綱権現に五十日参籠した所夢で会った老人に剣の極意を説かれたと、少々室町どりーむが入った話じゃがまあ、そうなんじゃ。しかし剣術が武士の表技で無くなった元禄年間の末期に生まれながらこのように一途に修行に取り込み流派を興そうと志す兵法者が存在した

2013-04-22 22:10:41
永倉新八 @nagakurashinsen

自流派を神道無念流と称した兵右衛門は江戸に出て道場を構えたが中々後継者が得られなかった、新興流派だけに、歴史の古い諸流派に比べれば入門者の数も多く無かった、後継ぎが居ないまま齢を重ねていた兵右衛門の道場に天才と呼び声の高い少年が入門してきたのが宝暦九年の事。

2013-04-22 22:16:34
永倉新八 @nagakurashinsen

武蔵国埼玉郡上清久の農民で、新田義貞の末裔と言われる戸賀元右衛門の長男、熊太郎である、人並み外れた体格と腕力を備えた熊太郎が江戸に出てきたのは十六、当時では一人前の大人だ、鍛えるには不足なし!

2013-04-22 22:20:25
永倉新八 @nagakurashinsen

齢六十を前に理想の後継者を得た兵右衛門は明和元年に免許皆伝を授けた、もちろん同じ免許皆伝でも不心得な流派の宗家たちが献金と引き換えに濫発した皆伝書とは違う、剛直で寡言沈黙と言われた兵右衛門が、わずか五年の修行期間で皆伝させた事実からしても熊太郎がどれだけ稀有な剣才の持ち主だったか

2013-04-22 22:25:25
永倉新八 @nagakurashinsen

察する事も然り!兵右衛門が皆伝を授けると同時に二台目宗家として流儀の道統を継承させた、時に熊太郎二十一歳、若き宗家誕生である。

2013-04-22 22:28:03
永倉新八 @nagakurashinsen

麹町二番町に道場を開いた熊太郎の門人は三千人に達した、自身の技量が優秀なだけでなく試合中心の激しい稽古を課しながら技の精妙な部分を的確に指南出来る才能もずば抜けていたからこその多数の入門者が詰め掛けるきっかけであろう。

2013-04-22 22:31:58
永倉新八 @nagakurashinsen

熊太郎は面倒見がよい性格でな、恩師兵右衛門を上清久に迎えて余生を過ごさせたり、父の仇討ちを志して入門してきた冨吉と言う少年が返り討ちにされないように三年間鍛えるとともに仇討ちを合法的に実行出来る様大橋姓をなのらせたり便宜を図った。仇の甚内という男は冨吉と同じ下総国相馬郡早尾村

2013-04-22 22:37:14
永倉新八 @nagakurashinsen

の出身で、小筒(鉄砲)組同心の株を買って武士になり剣術まで学び冨吉の報復に備えていた、熊太郎は門人達を動員して正体を突き止め、決行の際には数名の高弟を配置し、万が一仕損じた時に備えさせている。一介の門人の為にここまで配慮が出来る宗家はそうそう居ない。

2013-04-22 22:41:59
永倉新八 @nagakurashinsen

天明三年、十月八日、神楽坂行願寺で行われたその仇討ちは江戸中の評判を呼び、神道無念流の名声は更に高まった。

2013-04-22 22:43:32
永倉新八 @nagakurashinsen

以降も神道無念流は多数の傑出を出した、特に斎藤弥九郎、熊太郎の名前を継いだ戸賀崎の高弟、岡田十松が神田に撃剣館と言う道場を構えてから後進を育成、弥九郎が入門した時期は正確には不明だが十代後半か二十前半と推測される。それまでの弥九郎は苦難の連続であった。

2013-04-22 22:49:38
永倉新八 @nagakurashinsen

弥九郎は、貧しいながらも寺の僧侶について学問を修め、一時は商家に奉公にでたものの立身出世は難しく志しは断ち難い、十五で江戸に出て旗本の従者となり文部両道を学ぶ道が開けた弥九郎は撃剣館に入門して頭角を表す、二十三から六年、師範代を任されている。同門には韮山代官で西洋砲術の大家として

2013-04-22 22:56:43
永倉新八 @nagakurashinsen

名高い江川太郎左衛門、水戸藩の儒学者で後勤王志士の先駆者藤田東湖、渡辺華山、やがて弥九郎が江戸川支援に飯田橋に開いた練兵館は江戸の三大道場となる。

2013-04-22 23:00:02
永倉新八 @nagakurashinsen

幕末においてこの練兵館の門人は桂小五郎、高杉晋作、品川弥次郎と長州藩士が目立つが嘉永元年に弥九郎の息子達が武者修行中に長州で無類の強さを発揮した為である!

2013-04-22 23:03:22
永倉新八 @nagakurashinsen

明日は斎藤弥九郎の【和魂洋芸】な

2013-04-22 23:08:17
永倉新八 @nagakurashinsen

永倉兄さんが教えたる!元禄十五年は1702年じゃ RT @naluoekaki2 兄上の話、ふぉぼっといたので、今メモ帳にまとめてます。後でじっくり読みまする。元禄十五年がいつのことなのかからまず調べないと・・・(遠い目)

2013-04-22 23:20:17
永倉新八 @nagakurashinsen

しかし、斎藤弥九郎の話しはキリがない程あるのー、ああ、練兵館はな、新撰組と縁が深い、まず、道場破りが多かった試衛館の助っ人としてよく塾頭の渡辺昇殿が来てくれたり、芹沢さんや新見さんも神道無念流だしな。

2013-04-23 21:43:55
永倉新八 @nagakurashinsen

天然理心流の遠祖は天真正伝神道流、飯塚長威斎と古いが直接の流祖は近藤さんとこのー。ま、近藤さんは四代目じゃ。

2013-04-23 21:48:37
永倉新八 @nagakurashinsen

本日は和魂洋芸、斎藤弥九郎曰く「剣は手に従い、手は心に従う。心は法に従い、法は神は神に従う。錬磨これを久しうすれば、剣は手を忘れ、手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘る。至れりというべし」

2013-04-23 21:52:10
永倉新八 @nagakurashinsen

弥九郎、「もう一騎打ちの時代ではない。これからは団体戦の時代である。それ故、兵を練らねばならぬ」と常々言っとり、それゆえの道場名『練兵館』も頷けるな、江川太郎左衛門の知遇、藤田東湖、渡辺華山、高野長英らがあって、海防の測量に任じたり徳丸原で洋式大砲の撃ち方を習ったりしている。

2013-04-23 21:58:00
永倉新八 @nagakurashinsen

ちょっと刀!刀!の剣士とは大いに趣を異にしていたな、元々学問で世に出るのが望みだったからな、昨日話した奉公先の能勢伊予守が、「あれは尋常の者ではない、得心のいくまで文部両道を納めさせよ」と給金以外に資を与え文と武を学ばせた。

2013-04-23 22:03:35
永倉新八 @nagakurashinsen

練兵館の時に塾頭になった桂小五郎がよく弥九郎の弁当を持ち、船のを操り、小五郎が長州藩から出て賜暇が切れた時小五郎に代わり賜暇延長を藩当局に嘆願したりと中々に仲がよい、うむ

2013-04-23 22:11:19
永倉新八 @nagakurashinsen

ま、戻る、「剣は手に従い、手は心に従う。心は法に従い、法は神に従う。錬磨これを久しうすれば、すべてを忘る」これは神道無念流の極意として教えられる、その極意をさらに発展させれば、術を学んで術を忘れ、一段と身も心も広く、高い所に立つと言う事であろう。

2013-04-23 22:15:41