斎藤一 編剣術語り

無外流と創生辻月丹
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斎藤 一 @saitho1844

さて、かなり時間がたってしまったな、俺は無外流、辻月丹資茂の話をする。

2013-04-27 22:02:24
斎藤 一 @saitho1844

生涯を無欲で通した異風の剣客としても名高い、この辻月丹資茂は、慶安二年に近江国甲賀郡馬杉の郷土の家に産まれた。十三で入門したのは当時京で名を馳せていた山口流の創始者、山口卜真斎であった。

2013-04-27 22:06:45
斎藤 一 @saitho1844

それから二十六で山口流の印可を授けられるまで月丹は山口の許で修業を積み、剣の腕を磨いた。と言っても十三年間ずっと師の道場に着いていた訳ではなく、北越地方を廻る武者修業の旅を経験している。一人の師に仕えながら諸国を巡っていたと言う事実は誠に興味深い。

2013-04-27 22:10:58
斎藤 一 @saitho1844

現代の武術界においても剣を学ぶには師は一人と定めつつ、先生は何人持ってもよい(居合いと道場に柔術を学ぶは手前、知っておるな?)他の道場に出稽古に行く事が推奨されるのである。

2013-04-27 22:14:02
斎藤 一 @saitho1844

印可を得た後も月丹は武者修業の旅を行い、三十三カ国を巡り十二派を究めた。江戸で山口流の道場を開いたものの上手くいかず、三年の間、単独での修業に取り込んだ、この時期月丹は禅を始める、麻布、吸光寺の石潭禅師についての参禅は十九年にも及び、その没後は後を継いだ神州禅師に学ぶ。

2013-04-27 22:20:48
斎藤 一 @saitho1844

ごくわかりやすく言うと禅の修業は大悟と言う悟りを開く事で完とする、四十五で大悟した月丹に禅師は一偈、即ち印可の教えを授ける。

2013-04-27 22:25:21
斎藤 一 @saitho1844

印可の一節「一法実無外」に因んで「無外」と号した月丹は創始した流派を無外流と定めた。折しも江戸に出てきた師の山口卜真斎に三本勝利を収めた事により、月丹は名実供に独立を果たす。

2013-04-27 22:28:13
斎藤 一 @saitho1844

その後の無外流の隆盛ぶりは生涯に得た門人の総勢が五七00余人に達した事実からも明らかではある、月丹が六十を過ぎた宝永六年頃には諸大名に仕える陪臣九百三十名が内数を占めていた。月丹は養子の記摩多資英と供に土佐藩主、山内家江戸藩邸にも出入りを許されたが、召し抱えられたは三代目宗家

2013-04-27 22:34:51
斎藤 一 @saitho1844

辰五郎資幸の代の事である、大規模な流派の宗家でありながら、月丹は金銭にまったく拘らず、生涯を清貧の内に過ごした、蓬髪弊衣に塗りの剥げた鞘の大小を帯びたその姿は、若き日からの修業で鍛え上げられた風貌も相俟ち 、異様な凄みをたたえたと言われている。

2013-04-27 22:40:19
斎藤 一 @saitho1844

居合は月丹が諸国修業中に自鏡流開祖、多賀自鏡軒盛政に学びできた物だ。

2013-04-27 22:41:57
斎藤 一 @saitho1844

無外流についての小説は池波正太郎「剣客商売」山本周五郎「雨あがる」だな。

2013-04-27 22:43:28
斎藤 一 @saitho1844

居合について足捌きを学ぶ最中に柔術を学びそこで気付きがあったりと中々に面白い。しかし現代では金が掛かると聞く、それから今から始める者は左手に無数傷が出来よう、それを乗り越えてほしい。

2013-04-27 22:53:04
斎藤 一 @saitho1844

無外流と言えば姫路、明石でも盛んだったとあります。明石といえば斎藤一の祖先の地ですが、都治月丹の祖先もまた 赤石だ。

2013-04-28 22:14:19
斎藤 一 @saitho1844

藤田家文書のなかに『藤田家は播磨国明石町山口家より出ず。山口家は江州佐々木氏より出ず。-後略 』とあり、この江州佐々木氏は都治の祖先と同じだそうなのだ。ち不思議よな。山口一刀流の山口と、俺の山口と 何か関係あるのであるか無いかは知らぬ。

2013-04-28 22:16:19
斎藤 一 @saitho1844

子孫が残した文書に 「斎藤一は他に津田一伝流も習得しているが、無外流が主である。」という事です。また、柔術は関口流だ。関口派一刀流については大石に詳しく聞いてくれ。 篠原泰之新とも気があったとかないとか、どうであったかな…。

2013-04-28 22:18:24
斎藤 一 @saitho1844

さて辻月丹『問うていう、万法一に帰す。一はいずこに帰するや。更に参ぜよ三十年』 辻月丹の太刀先は気息充実すると、ぼわっとふくれ上がったそうだ。大体、構えに少しもいかめしい所が無く、仕合いの時はシナイをかついですっと行って打つ。いつも先々の先をとった。そして。

2013-04-28 22:26:06
斎藤 一 @saitho1844

「気の満ちるには、打ち込む時、シナイの先かわふくれしとなり」と『異説まちまち』に書いている。後年、一刀流中西門下に寺田五右衛門、白井亨という二人の異才がいて、寺田は「おのれの太刀先から火焔が噴く」と言ったし、

2013-04-28 22:30:47
斎藤 一 @saitho1844

白井は、「我が剣先から環が出るぞ」と言ったそうだ。いずれも激しい。この点、月丹の太刀先がぼわっとふくれ上がると言うのは気・剣が一体となった生き物を見るようで味があったとか。

2013-04-28 22:33:23
斎藤 一 @saitho1844

手前の祖、山口流の基本は陰陽二剣あり、それはどんなものかと言うと、左へ跳び替わって相手の右籠手を斬る(燕帰)と右へ跳び違って左籠手を斬る(燕迎)と言うものだ。後に武者修業の為に旅に出たが無外流居合を閃く時、愛宕山に籠もうたり師に教えをこうたり、愛宕の天狗と呼ばれたらしい。

2013-04-28 22:39:11
斎藤 一 @saitho1844

無外流な名前の由来となった詩は 一法実に外無し 乾坤一貞を得 吸毛まさに密に納む 動着すれば光清し 一法即ち絶対の真理以外何も受付ない。その一なるものは吸毛の剣なように鈍いがら、わが方寸の心内あり、僅かに動けば、光輝燦然と輝く、と言う意味だ。

2013-04-28 22:45:43
斎藤 一 @saitho1844

月丹は「更に参ぜよ三十年」と解く、修業は二十年、三十年では終わるものではなく。また改めて三十年やれ、終わったら三十年やれと言う意味である。

2013-04-28 22:48:05
斎藤 一 @saitho1844

『玉簾絶えず』これも月丹の人となりがわかってよい、あまり金銭に執着しなかった月丹が色んな場所に手合わせを願っても「そちのようなむさい者と手合わせして負けたら恥辱、勝っても自慢にならぬ」とよく追い返された、<玉簾不断>玉簾とは滝の事、一滴一滴の水玉が男波女波となり無限に連鎖する様

2013-04-28 22:57:16
斎藤 一 @saitho1844

一つの波は既に今の波ではなく、今の波はまた没し去る、しかし連続している。人間の心もまた、念起り念滅しながら続く、その中で今日只今を最高に充実して生きるのが、時間を超えて生きる由縁ではあるまいか。

2013-04-28 22:59:56
斎藤 一 @saitho1844

享保十二年、七十七で没す、墓所は芝高輪の如来寺にあったが品川に大井町に移った際墓石は紛失している。沢庵石を重ねて出来ていた墓故、ただの石だと思われて取り残されたのであろう、(一法無外居士)の最期に相応しい。

2013-04-28 23:04:40
斎藤 一 @saitho1844

しかし彼は老いて枯れては居なかった。年老いた月丹が薪割りをしていたら武芸者がやってきてしきりに仕合を求めた、月丹は相手にせず薪割りを続けていたので武芸者は苛立ち、「無外流とはどんなものか見せよ」と詰めよった。その言葉が終らぬうちに「こんなものだ」と、月丹が手にした薪で一撃した、

2013-04-28 23:08:11