- hironakayuriko
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1)小学校の時、「電球には抵抗があって、電圧が抵抗に比例しており、抵抗が大きくなればなるほど電圧も大きくなり、電球も明るくなる。ニクロム線は、赤くなる程度で暗いから電球ほどは抵抗が大きくないのではないか」と先生が言うので、「抵抗の大きい紙は、どうして電球にならないの?」と聞いた。
2013-05-05 03:25:032)先生は「という事は、紙の方が抵抗は小さいのかな?」と独り言を言った後、「測ってみよう」と言った。当然、紙の方が抵抗は大きい。電球も抵抗が大きい程、暗い電球だった。今思えば、先生はオームの法則の事を教えようとしたのだが、理解不足のために間違った事を言っていたのだと分かる。
2013-05-05 03:25:183)先生は、「うーん。。分からない。一緒に調べてみよう。」と言って、それから何日もの間、ぽよは先生と一緒に本を読んだり、考えたりしてツジツマの合う答えを探し求めた。結局は、先生も、ぽよも、納得できる答えに辿り着かなかった。はっきり「分かった」のは高校時代だったかもしれない。
2013-05-05 03:25:594)何せ、ネットが無い。本屋が無い。図書館には本が数百冊しかない。という超田舎の町の事。クラスには20人程度しかいない過疎の小学校だ。よい参考書など無かった。分かるのに4年以上の歳月がかかったわけだが、仕方がないと思う。
2013-05-05 03:26:125)小学校の先生とは言え、オームの法則についての疑問に対して誤った理解を教えたその先生は、今なら不適格教員という事になりそうだが、ぽよは、その先生のお蔭で科学を学べたと思う。本当に感謝している。つまらない大学入試の問題を解ける優等生の先生よりも遥かに良い先生だったと思う。
2013-05-05 03:26:266)その先生と一緒に、「少ない資料を幾つも読んで調べたり、色々な物の抵抗を測って色々な仮説を立てては、間違っている事に気づき」という事を果てしなく繰り返した経験は何より楽しくて、忘れられないものだった。その先生とは、他にも色々な勘違いを共有した記憶がある。
2013-05-05 03:26:396)その先生と一緒に、「少ない資料を幾つも読んで調べたり、色々な物の抵抗を測って色々な仮説を立てては、間違っている事に気づき」という事を果てしなく繰り返した経験は何より楽しくて、忘れられないものだった。その先生とは、他にも色々な勘違いを共有した記憶がある。
2013-05-05 03:26:397)教育の「技術」がペーパー試験で測れない事は言うまでもないが、更に、教育の「能力」となると「適格度を測る」と言う概念を超越したもので、「全ての児童に平等な教育機会を与えるために教員に資格認定をする」という考え方自体が勘違いなのだと分かる。
2013-05-05 03:26:538)教育は、師や知識との「出会い」が、重要性の殆どを占めているのであって、教育資格試験とは『「出会い」に対する資格を測る』という愚なのだと思う。例えば「ガールフレンドと仲良くなれる資格」を試験する機関があったとしたら、それをどう思う? まして、その資格を国が認定していたとしたら?
2013-05-05 03:27:568)教育は、師や知識との「出会い」が、重要性の殆どを占めているのであって、教育資格試験とは『「出会い」に対する資格を測る』という愚なのだと思う。例えば「ガールフレンドと仲良くなれる資格」を試験する機関があったとしたら、それをどう思う? まして、その資格を国が認定していたとしたら?
2013-05-05 03:27:569)ぽよは、小学、中学、大学と、本当に師に恵まれていた。ぽよ自身が、その恩師たちを、超えられるような師になれるのはいつの事だろう。ぽよの師達は皆、いつまでも越えられそうもない壁でもあるのだ。そして、「出会い」が人の数だけあるように、教育の「能力」も人の数だけあると思う。
2013-05-05 03:28:5710)ここで、ぽよの暴言を書くと、教育資格なんて自己申告でいいのではないか? もちろん、生徒や親、学校も、誰でもを教員に選ぶという分けではないのだから。。間違いなく、人との出会いが今のぽよを作ってくれた。それだけが教育と呼べるもので、細かい技術なんかは一人で十分だよ。
2013-05-05 03:32:39