日本の旧制高校・帝国大学について(雑談)
京大というか京都帝大が出来たのは、東大(明治10年創設、その後の帝大)より20年遅れですから、明治30年のはず。まさに前半も2/3までってことですね。吉田村時代。 @undermusicinc 明治前半までの吉田山周辺は本当に農村だったみたいです。
2013-05-02 23:16:54です。京都帝国大学が先に出来て、その予備校として、旧制高校だったと思います。明治初期の学制発布では、高校がなくて、大学、中学、小学、と大中小だったんですね^^; http://t.co/lutmD27xNz @izunoeigorou 三高と一高との時間差はどうですか、少し疑問が
2013-05-02 23:31:42注意:京都帝国大学と三高(第三高等学校)はどちらが先に出来たかというと、三高が組織としては先にあった。しかしそれはいわゆる旧制高校として我々が知る学校とは異なった学校(専門科目の授業中心)だった。京都帝国大学の予科としての三高という意味なら、1900年(明治33)の「高等学校大学予科学校規程」の公布から、今知られる三高になった、という言い方もできる。これは京都帝国大学の創設(1897年、明治30)の3年後のことだった。このように創設時期の問題は、学制の変遷とセットで比較する必要があると思われる。
@y_mizuno @izunoeigorou ① 東京大学と東京帝国大学は歴史としての継続性はあるものの、その中身には大いなる差異があります。前者は文部省所管の学校にすぎなかった。当時の司法省、工部省、開拓使、農商務省はそれぞれが独自の人材育成機関を持っていたようです。
2013-05-03 11:40:27@y_mizuno @izunoeigorou ②東京帝国大学は官庁ごとに設立されていた教育機関を国家の名の下に統合して発足させたのです。このとき全国を5の地域に分割し高等学校を設置します。帝国大学と旧制高校はセットとして誕生します。校名は設立年度ではなく学区名だったのです。
2013-05-03 11:40:27注意:以下↓で「三校」は「三高」(第三高等学校)として読んで下さい。
@y_mizuno @izunoeigorou ③三校は当初大阪が予定されていました。京都になった理由のひとつはその10年前の同志社の設立です。人材育成の場としての京都という自覚がこの街に定着していたのです。両校が自由と独立を校風にしたのは偶然ではなかったのです。
2013-05-03 11:40:27@yasujikatoさん、ご指摘ありがとうございます。学制発布の段階では全国に8大学区が提案されますが、それが5大学区に変わったということでしょうか?なお高等学校の歴史については、もう少し複雑かも? http://t.co/lutmD27xNz @izunoeigorou
2013-05-03 12:09:57@y_mizuno 学制発布の段階での8大学区は実施されることなく、教育令により制度の廃止がきめられたようです。5学区は大学ではなく高等中学校の設置を定めています。一高東京、三校京都が明治19年、翌年二校仙台、四校金沢、五校熊本が開校します。
2013-05-03 12:35:57@yasujikatoさん、届いております。最初は8、翌年に7、その後に5、ですか。でも最終的には国立帝大は7でしたよね?ということは、その後に2大学増えたということみたいですね? @izunoeigorou
2013-05-03 13:05:42@y_mizuno @izunoeigorou 帝大は1東京(明治19),2京都(明治30),3東北(明治40),4九州(明治43),5北海道(大正7),6京城(大正13),7台北(昭和3),8大阪(昭和6),9名古屋(昭和14)です。
2013-05-03 13:20:20@yasujikato ありがとうございます。国立七帝大という言い方を今はしていますが、戦前は違ったのですね。でも5から9には明確な理由なしには増えないので、興味深いです。@izunoeigorou
2013-05-03 13:40:10@y_mizuno 官立の五校の設立と同時期に、薩長の旧藩主の尽力で、ニ校の旧制高校ができます。以降五十余年にわたり、昭和15年の旅順高等学校まで34校が開校します。薩長両藩に由来するニ高には明治35年の共通試験実施までは、入試における地元特権などの優遇があったようです。
2013-05-03 14:55:32@y_mizuno 宮内省管轄の学習院高等学校には、文部省管轄の帝大への受験資格がなく、東京帝大への道は実質的にはとざされていたようです。そのため中等科から一高などの高等学校に行ったようです。そのため定員割れしていた京都帝大法科に進学したとのことです。木戸幸一、近衛文麿など。
2013-05-03 15:08:18@y_mizuno @izunoeigorou さらに旧制高校には大学予科と専門家育成というふたつの性格があったようです。明治27年に工学医学法学などの専門学科の併設が義務化されます。一例として後に一高医学部は千葉医学専門学校として独立します。
2013-05-03 15:16:34@yasujikato 情報をありがとうございます。参考にさせていただきます。学制はかなり複雑に変わってきていますが、面倒がらずにたどってみなければなりませんね。 @izunoeigorou
2013-05-03 20:41:35今回のお話しで、旧制高校の制度面にも興味がわきました。ありがとうございました。@yasujikato @izunoeigorou
2013-05-03 20:49:38@y_mizuno @izunoeigorou 県庁はないけれど旧制高校があった地方都市で高校時代を過ごしました。40年前の話です。旧制高校OBの先生が普通にいて、コンパや寮歌が違和感のない生活でした。 桃山学院大学の高田里恵子氏に旧制高校に関する著作が何冊かあります。
2013-05-03 21:32:42@yasujikato 実は、京都女子もそうなのですが、京都帝大が出来たのも、日清と日露のちょうど、間の時期。国民の教育熱、学習熱に応える形で、以降続々ですね。
2013-05-03 22:29:13@yasujikato @y_mizuno 余談ですが、一部の意見ですが(母から来た話ですので)、東京では海兵、陸士(東京ではあまり人気がなかった)これが絡んでくるのです、三高、一高、が受験生の目標らしいです、高校生なれば受験勉強ではなく、目標に向かっての勉強に、大人の勉強に①
2013-05-03 23:15:34@yasujikato @y_mizuno ②高校に入れば、大抵の大学に入れるらしかった、北杜夫さんは松本から東北に、自分の目標に合わせて勉強を、研鑽を、三高の紅もゆるの寮歌と一高のああ玉杯にで詞が違います、一高は国家をにない、三高は学者的。
2013-05-03 23:25:03@y_mizuno @izunoeigorou 東京の府立中学の場合、東条英機の母校四中のように陸士海兵や中退して幼年学校に多くの卒業生が進学した中学校もありました。陸士海兵は授業料が無料でした。このことが進路決定に及ぼした影響も無視できないと考えられます。
2013-05-04 13:17:51