ブレスのブラス

ぼくの中学生活は、思い出したくもないくらい、青春とはかけ離れた季節だった。チビで優柔不断、なにかとくじ運が悪く、文句は多いが喧嘩は嫌いだ。でもあのころ、僕の中では深く、大きな体験をしていたのかもしれない。田舎の田んぼの中学校の、吹奏楽部の中で。
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Takashi Kinoshita @fromk

吹奏楽部に入部した時、僕はいちばん小柄だったと思う。トロンボーンは全く手が届かなかったし、パーカッションの練習台は胸まであった。ちょっと困った顔をして先輩が渡してくれたのが、手のひらにすっぽり入る綺麗な銀色の塊。それが僕とトランペットとの最初の出会いだった。 #brebra

2010-09-10 09:23:22
Takashi Kinoshita @fromk

難波先輩は、重々しいケースから白銀のトランペットを取り出し、一瞬、目を細める。僕はその優しい目が好きだ。けれど一度楽器を構えると一変する。ゆっくりとしたロングトーンから速いパッセージまで、誰も寄せ付けない気迫がある。今なら適切に表現できる。彼は「求道者」だった。#brebra

2010-09-10 09:40:41
Takashi Kinoshita @fromk

「それはマウスピース。ほら、トランペットのこの口のところ、これだけ取れるんだ。新入生はまず、これで音が出るまで練習。楽器が持てるのはそれから、だな。」#brebra

2010-09-11 05:34:12
Takashi Kinoshita @fromk

マウスピース。口元は小さなカップになっていて、底には穴が空いている。そこから細い金属のパイプにつながり、進むほど広くなっている。どうやって作るのか想像もつかない、美しい形状にしばらく見とれた。なるほど、ゲイジュツ的だな、と、芸術のゲの字も知らない僕は思った。#brebra

2010-09-11 05:55:44
Takashi Kinoshita @fromk

三条は一緒に入部した5人の中でもとにかく頭が、というかセンスがいい。もう一人は牧野。あの小柄な体の中には強力なリーダーシップが潜んでいる。まあ、それがわかるのはずっと後の事だけれど。ともかく、僕も含めたこの3人が、トランペットパートの新入生というわけだ。#brebra

2010-09-11 10:57:13
Takashi Kinoshita @fromk

どうしてもうまく吹けない僕に藤森先生は言った。「プレーヤーとしては、確かにお前は使えんよ。1オクターブの演奏範囲じゃあな。じゃあ聞くが、お前、何で吹奏楽部をやめない?お前にはきっと別のモノが見えてるんじゃないかと期待してたんだがなあ。」#brebra

2010-09-11 11:30:38
Takashi Kinoshita @fromk

吹奏楽部顧問の藤森先生は1年の音楽の先生らしいが、クラブにはほとんど顔を出さない。何となく伝説化した感じだ。僕らはここ何日か、相変わらずマウスピースで腹をすかした雛のように、苗が揃い始めた田圃に向かってビービー鳴いている。#brebra

2010-09-11 14:26:51
Takashi Kinoshita @fromk

結局、僕らが藤森先生に初めて会ったのは、音楽の授業だった。かつて有名バンドのギタリストだったが、芸能界は厳しく、かと言って音楽への未練も捨て難く、流れ流れてこんな田圃の真ん中の中学で子供相手に音楽を語る。なんてことはなくて、ただの僕の第一印象なのだけれど。#brebra

2010-09-11 14:42:05
Takashi Kinoshita @fromk

「教科書はいらん。今日はこれだ。」先生はみんなにプリントを配り始めた。さすがギタリスト藤森、いきなり教科書なしか。プリントには歌詞が印刷されている。中島みゆき、ホームにて。中島って誰? #brebra

2010-09-11 14:50:24
Takashi Kinoshita @fromk

「先生、これ歌謡曲じゃないですか」そら来た。必ずいるよね、こういう人。そうだ、疑問は良く考えずにそのまま大人にぶつける。それが清く正しい反抗期ってもんだ。僕は歌謡曲ということすら知らなかったが。#brebra

2010-09-11 15:48:34
Takashi Kinoshita @fromk

「なにか問題でもあるのか?」ギター藤森の反撃だ。「これは俺の好きな曲だ。誰かが好きな曲は、必ずいいところがある。もし教科書の中に好きな曲があるなら、ぜひ教えてくれ。まあ、教科書の曲をWalkmanで聴くやつにはまだ会ったことはないけどな」 と豪快に笑った。#brebra

2010-09-11 16:26:28
Takashi Kinoshita @fromk

結局、音楽の時間は先生お気に入りのテープを聴きながら「ホームにて」の歌詞についていろいろと議論することになった。切符はなぜ青いのか、なぜため息の数と切符の数が一致するのか。僕らは藤森は国語の先生だと信じるようになった。だから、吹奏楽部には来ないんだ。#brebra

2010-09-11 16:36:27
Takashi Kinoshita @fromk

そんな僕らのギター藤森国語教師説が根底から吹っ飛んだ事件が起きた。「ホームにて」の抜き打ち歌のテスト。そこで僕らは、というか僕は、藤森を心の底から音楽の先生として尊敬するようになる。その尊敬は、音楽を外から愛でるだけの大人になった今でも続いている。#brebra

2010-09-11 16:43:29
Takashi Kinoshita @fromk

夜の団地は以外と怖い。この建物の中に沢山の人が確実に住んでいるのに、夜になると何かに怯えるようにひっそりと息をひそめる。一通7円の広告配達のバイトは、時間の融通がきくという点で中学生には有難かったが、見てはいけない世界に踏み込むような怖さがあった。#brebra

2010-09-11 22:42:06
Takashi Kinoshita @fromk

白状する。僕は歌を歌うのが大嫌いだった。音程は取れないし、リズム感もない。小学校の通知簿で、音楽はいつも「がんばろう」だった。こんなに苦手なもの、どうやって頑張れるんだよ。なのに何で吹奏楽部に入ったんだっけ?僕は抜き打ち歌テストで完全にパニックになっていた。#brebra

2010-09-11 23:05:12
Takashi Kinoshita @fromk

いつもそうだ。僕は必ず一番悪いクジを引く。「ホームにて」を最初に歌うのは僕になった。ああもう、こうなったらどうしようもない。せめてでかい声で歌ってヤル気だけでも示そう。たいした得点も取れないのに、小さな利得にこだわる。体も小柄だが、人間もかなり小さいのだ、僕は。#brebra

2010-09-11 23:14:56
Takashi Kinoshita @fromk

たぶん僕の顔は蒼白だったと思う。国語藤森は黙ってピアノの演奏を始めた。辛うじて出だしはわかる。だが案の定、僕の最初の音程は、総理大臣の始球式のように当たり前のごとくワンバウンドして外れた。#brebra

2010-09-11 23:21:00
Takashi Kinoshita @fromk

これでクラスの伝説決定。オリジナルソングで無謀な勝負をかけようとした瞬間、世界がグラっと傾くような、変な感じがした。すぐに藤森がピアノで何かした、ひょっとしたら間違えたの、と考えながら続けるうちに、今まで感じたことのない快感を覚えた。ひょっとして歌、歌えてるよ。#brebra

2010-09-11 23:45:56
Takashi Kinoshita @fromk

生まれて初めて、自分の歌の後に拍手を貰った。でも、この拍手は当然、藤森へのものだった。藤森は僕が歌い出した瞬間、僕の音程に合わせてコードをシフトした。ピアノが自分の音程に合わせてくれたのだ。そんなことができるなんて、教室の誰一人、想像すらできなかった。#brebra

2010-09-11 23:55:14
Takashi Kinoshita @fromk

僕にとって、歌は厳格な外部の何かに徹底的に自分を合わせる、敗北感満載の行為だった。でも藤森のピアノはいともあっさりとその戦闘ラインを乗り越え、まるでダンスをリードするように寄り添うのだ。「どうだ、面白いだろう? 自由に歌え、そのためにじっくり歌詞を味わったんだ」#brebra

2010-09-12 00:08:23
Takashi Kinoshita @fromk

その後の事は、実は良く覚えていない。僕はいきなり空を飛べたような快感に浸り切っていたし、クラスのみんなは次々に藤森に音程をリクエストしては歌を楽しんでいた。藤森は難なく全員のリクエストに応え、気持ちを込めた歌唱には惜しみなく賞賛を与えた。#brebra

2010-09-12 00:40:52
Takashi Kinoshita @fromk

ただ、今でも確信として刻まれていることがある。超絶的な技術と豊かな人間性があれば、どうしようもない現実から飛び立って、本当に自分らしい生き方のできる新しい世界へ人をいざなう事ができるということだ。#brebra

2010-09-12 00:52:32
Takashi Kinoshita @fromk

汗とヨダレにまみれた酸欠生活。どこに入部したのかさえ忘れかけていた頃、トランペット本体への合体を許可された。左手でボディを握り、右手をピストンに置く。息を吹き込んで産まれた音は、小さなドラゴンが雄叫びをあげながら身体から飛び出して来るような、初めての感覚だった。#brebra

2010-09-14 16:18:49
Takashi Kinoshita @fromk

「確かに技術を磨く事は絶対必要だ。ただ賞をもらい、格付けされることで立ち止まるな。俺がお前たちに要求したのは、観客も巻き込んだダンスのような体験を創り出すことだ。たぶん、とんでもない要求だ。だが、決して不可能じゃない。それはお前も理解できるんじゃないか?」#brebra

2010-09-14 18:51:17

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