- masakishibata
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5月10日
某制服ハスハスしている人のツイートを読んで唐突に思い出した。
遠い昔に「別所近辺を整理し直してまとめる」と言っていたことを思い出したが、何もしていないし今から何かしようとするわけでもない。
2013-05-10 12:53:36なので、過去に呟いた三木合戦についてのツイートを掘り出してきたおっ!☆
2月2日
三木城が落城した日におはようございます。『三木の干殺し』と呼ばれる兵糧攻めの代表的な事例。きちんと調べる資料が手元にないので以下略。(最近そればっか)
2013-02-02 10:34:442月4日
土曜にスルーした三木合戦について調べてみようとしたが、その発端となった加古川評定の結末が悲惨すぎて巻き込まれた別所長治が不憫すぎる。
2013-02-04 21:31:222月5日
別所家を含む播磨の諸勢力は当初、西の毛利家と東の織田家の両方と友好的な関係を結んでいました。毛利・織田の両家にとっても播磨は大勢力同士の緩衝地帯として機能していたのですが、1577年あたりから状況が変わってきます。
2013-02-05 12:42:27まず、播磨中部の小寺家が明確に毛利との対決姿勢を示したことを機に西部の上月城などが織田方に攻略され、播磨のほとんどが織田方の手に落ちました。そして、1579年に宇喜多直家が織田家に臣従したことで山陽方面の勢力図は一気に塗り替えられることとなりました。
2013-02-05 12:43:08そんな折に繰り広げられたのが、『三木合戦』。事の発端は1578年3月に山陽方面軍団長・羽柴秀吉が播磨の諸領主を召集して開いた軍議、いわゆる『加古川評定』です。
2013-02-05 12:43:40別所家の名代として軍議に参加したのが、当主・別所長治の叔父である別所吉親。名門意識が高く、親毛利派として織田家に敵対的な態度を示す人物です。当然のように軍議の場では秀吉と衝突。吉親は長治を説き伏せ、織田家と明確に対決する姿勢を示しました。
2013-02-05 12:44:11それに呼応するように、7月には毛利方が上月城を攻略。織田方は別所方の支城を次々と攻め落とすものの、10月に荒木村重が謀反を起こしたことで山陽戦線は大きく後退します。
2013-02-05 12:44:34しかし、一連の支城攻略によって別所方は徐々に兵糧の補給が困難になります。決定的なのは、翌年1579年5月に摂津から補給路であった淡河城が織田方に攻略されたこと。そして、丹波の波多野秀治が降伏したことで織田方は山陽方面に戦力を投入することが可能になります。
2013-02-05 12:45:17更に10月、備前の宇喜多直家が毛利方から離反して織田家に臣従。これにより、毛利家と播磨は完全に分断されることとなりました。ここからが、いわゆる『三木の干殺し』の始まりです。
2013-02-05 12:45:421579年11月、荒木村重が逃亡(諸説あり)したことで有岡城が陥落。三木城の別所方は孤立無援となりました。そして、年が明けた頃には遂に兵糧が底を尽き、1月14日に開城交渉が始まります。
2013-02-05 19:54:121月17日(新暦2月2日)、当主・長治以下一族の切腹と城兵の助命を条件に三木城は開城。ここに2年近くに及ぶ三木合戦は終決しました。別所長治、享年23歳。辞世の句は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」。
2013-02-05 19:54:37ところで、戦のトリガーを引いた別所吉親も開城の条件として切腹を言い渡されています。しかし、吉親は切腹を拒否。織田方に首は渡さないと自らの館に火を放ち、怒った城兵に殺害されました。
2013-02-05 19:54:59吉親の妻は幼い3人の子を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害したとのことです。三木合戦の悲惨さは飢えた城兵だけでなく、こんな場面にもあるのです。
2013-02-05 19:55:19