- masakishibata
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1月22日
そうは言いましても、ね・・・
紀伊湯浅氏と丹波湯浅氏。
湯浅氏自体はね、紀伊国湯浅荘(現在の和歌山県有田市湯浅町)の大族で有名なのよ。で、越前との接点でいえば養老年間に木田郷山奥(現在の福井市山奥町)に下向した人物がいるらしいが、昔過ぎて何も分からんのね。
2013-01-22 12:26:19ただ、五助の子孫は尾張徳川家に仕えて現代まで家系が続いているらしい。おそらく世界で一番詳しい湯浅系サイトによると、五助の子・十郎左衛門が高力忠房に仕えているの。
2013-01-22 12:28:14問題は五助以前のことだ。それが分からん。しかも複数の子孫が「五助」を名乗っているようなのでややこしい。幸いなのは、混同するほど情報がないことや。(アカンやん)
2013-01-22 12:30:46何かのヒントになるかというのが、丹波湯浅氏の一族に『貞』を字を使った名前が何人か見られることか。丹波湯浅氏は南北朝時代に湯浅宗朝が世木郷(現在の京都府南丹市日吉町)に移り住んでから土着し、こちらも現代まで続いている家系。
2013-01-22 12:33:12ちなみに戦国期には湯浅宗貞という人物がいて、丹波守護代・内藤氏に従って教興寺の戦いなどに従軍している。しかし、1570年に何の前触れもなく帰農したと。
2013-01-22 12:33:44丹波湯浅氏の家督は宗貞の妹の子・宗清を養子として継がせたとする系図と、貞清という人物が継いだとする系図があるらしい。どっちも『貞』なのね。
2013-01-22 12:34:45で、宗貞の官位(但し、自称)は越前守。もういいぢゃん。湯浅宗貞の子の誰かが湯浅なんとか貞(=五助)で、大谷吉隆の一字拝領で『湯浅隆貞』を名乗ったということにして。(こじつけからの投げやりコンボ)
2013-01-22 12:37:56さすがに適当すぎる。
年齢の推察に話が飛ぶ。
湯浅五助が関東の浪人だった話は『慶長記』が出所、と・・・『慶長年中記』のことか?それなら近代デジタルライブラリーで閲覧できたはずだが。
2013-01-22 18:36:25ちなみに、五助が大谷吉継の首を埋めた話は有名な『常山紀談』に記されています。藤堂高刑が首の在り処を徳川家康に教えなかった件は『平尾氏箚記』にあるらしいですが、こっちはどんな書物か分からん。
2013-01-22 18:42:32んで、五助がいつから大谷吉継に仕えていたかは推察するしかないよな。子の十左衛門も吉継に仕えていたので、少なくとも1600年時点で元服している息子がいる年齢ではある。
2013-01-22 18:51:39孫の十兵衛は1697年没とのことなので、早くても1630年くらいの生まれではないかと。仮に十左衛門が1600年に15歳と仮定しても、かなり歳取ってからの子ということになるよなぁ。
2013-01-22 18:55:07十左衛門の年齢をもっと上げると十兵衛の没年と矛盾が起きそうなので、五助は1600年の時点で30代半ばから40近くになるのかな。
2013-01-22 18:56:57本日の成果。
今日はいっぱい新しい人物の名前を覚えたお。高力忠房は1598年に15歳で岩槻城主になり、1655年に72歳で亡くなったんだお。徳川光友は1650年に26歳で尾張藩主になり、1700年に76歳で亡くなったんだお。
2013-01-22 20:55:04あと、竹腰正晴は兄が相続を辞退したから1645年に11歳で今尾藩主になって、1677年に43歳で亡くなったんだお。みんな湯浅十兵衛の関係者だお。
2013-01-22 20:55:56