- masakishibata
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1月25日
いつものおはようございます。
鳥居元忠の弟・忠広や前田利家の弟・良之、平手政秀の子・汎秀らが戦死した日におはようございます。忠広は物見で不利を主張したが退けられて玉砕、良之と汎秀はそのとばっちりで討死、他にも名のある武将が多く戦死した。一説には全員、狸にそっくりだったため狸狩りに遭ったとも言われる。
2013-01-25 09:02:51狸の親玉はう○こ漏らしながらうなぎパイの産地まで逃走。憂さ晴らしに竹を斜めに切って城門の前にぶっ刺し、門を開けたままふて腐れて狸寝入りした。その竹が門松の由来とされる。
2013-01-25 09:06:33家康がどうこう以前に武田軍が凄いというお話。
三方ヶ原の戦いの開戦までの経過を簡単に言うと、武田方:二俣城を陥とす→徳川方:浜松城に籠城→武田方:浜名湖方面に西進→徳川方:武田軍の背後を突くために出陣→武田方:三方ヶ原台地で迎撃→徳川方:ボロ負け、ということになるのだが。武田軍、いつ反転したの?
2013-01-25 12:05:46軍の反転って回れ右じゃダメよ?ちゃんと前後も入れ替えないとダメよ?それとも回れ右で迎撃できる陣形だったの?三方ヶ原の戦いは徳川ダッセー的な印象が強いと思うが、実際のところは武田スッゲーということではなかろうか。
2013-01-25 12:06:21と言いながら地図で二俣城と浜松城と三方ヶ原台地(現在の三方原町付近)の位置を見てみると、武田軍は南西に、徳川軍は北西に進んでいるのな。武田軍がちょっと東に向くだけで正面衝突しそうな位置関係なので、徳川方は端から野戦でキメるつもりだったのかという見方もできそう。
2013-01-25 12:07:07わたしも今日まで誤解していたのですが、武田軍が浜松城の目の前を進軍したとかではないですよ。浜名湖畔の堀江城が攻められそうになったので領地の分断を防ぐために迎撃に出た、というのが実際のところと推測します。これは姉川の戦いの開戦理由と同じだと思います。
2013-01-25 12:07:37だから家康がどうこうじゃなくて、ね・・・
「なんで負けると分かっていてイエアスは城を出たの?バカなの?死ぬの?」的な意見をよく目にするのですが、出ざるを得ない状況というのはあるわけでして。
2013-01-25 12:37:28敵の大軍が領地のド真ん中に食い込もうとしていて更に三河方面にも別働隊が迫っていて、放っておくと領地分断と大軍合流という最悪の状況に追い込まれるわけで、ここで迎撃するしかなかったのが 三方ヶ原の戦いだったと考えています。
2013-01-25 12:40:31結果的に惨敗したので悪く評価されますが、武田方の侵攻路が想定と違ったことに気付いて即座に籠城から迎撃に転じた徳川家康の判断は正しい。武田軍が二俣城を出てすぐにその判断を下しているので、家康の決断力を褒める場面だと思うのよ。
2013-01-25 12:50:50武田側から見た三方ヶ原の戦い。
武田からみた三方ヶ原の戦い、か。武田方からすれば多方面に展開した西上作戦の一部に過ぎないし、大きな被害もなく逆に戦果もないので特筆することがないというところだと思う。
2013-01-25 18:38:47通説になっている「武田信玄が挑発して城から誘い出した」のも「徳川家康がシカトされたので怒って城から出た」のも違うと思うのよな。もちろん、堀江城に向かえば家康が迎撃に出てくることは信玄の想定であったと思うが。
2013-01-25 18:40:52姉川の戦いもそうなんやけど、目的は「敵方の拠点を制圧して敵戦力の分断と自軍拠点の確保」を同時に達成することにあると思うのですよ。
2013-01-25 18:42:53その考えでいくと、武田本隊が堀江城を確保して家康本隊の西進を塞ぎ、浜松と岡崎の連絡を断つ。そして、山県昌景あたりの別働隊が東三河に入って西上する。なんてことが可能になるのではないかと。
2013-01-25 18:47:29あ、山県で思い出した。家康が空城の計で山県隊を退けたというアレ。本隊と山県隊って合流したっけ?山県隊は長篠経由で三河に向かっているよな?
2013-01-25 18:52:43結論保留。(いつものこと)
今日一日で三方ヶ原の戦いについてかなり調べたが、本質は武田信玄の西上作戦のすべてを知らないと見えてこないとも思えた。武田は手付かずやしなぁ。
2013-01-25 21:39:09