#榊メモまとめ。

榊原康政に関する色々。主に寛政譜と御系図から。
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伊織 @otiea_s

ぼちぼち寛政譜と御系図と家譜を見比べて列挙していきますがどこまでいくかわからない+時間かかりそう。 #榊メモ

2013-05-12 10:55:29
伊織 @otiea_s

榊原康政、1548年、天文17年生まれ。父長政。母道家氏。長政の正室は鴛鴨松平の姫だけど家譜等に記載なし。ちなみに祖父の正室も鴛鴨松平から来ていたり。母の出自は不明だけど、道家氏で有名なのは美濃衆。継室なのか側室なのかは不明だけど一応継室? #榊メモ

2013-05-12 11:02:36
伊織 @otiea_s

兄の清政は母が誰かの記載がない。でも通常は弟と同母として扱われてる(寛政譜)。清政が生まれた年は、松平広忠様による上野城攻めの年だったりする。この頃上野城は織田側。 #榊メモ

2013-05-12 11:07:46
伊織 @otiea_s

康政は上野城に生誕碑があるけれど、地元伝承では上野城から少し離れた上野下村城(会下城)の生まれ。この城は祖父清政が三河に移った時に築城したと言われてる。 #榊メモ

2013-05-12 11:12:51
伊織 @otiea_s

永禄三年、13才の時に大樹寺において桶狭間帰りの殿と出会い小姓になる。のは有名だけど、何歳から大樹寺に入っていたのかは不明。兄も大樹寺で学んだという話もあるらしいけど未確認。康政の生まれた年の前後で酒井将監殿は松平(というよの今川方)に戻ってる。 #榊メモ

2013-05-12 11:18:35
伊織 @otiea_s

高田市史なんかを見ると15才で初出仕になってるけど、酒井将監殿のことを考えると即座に登用できなかった可能性もなくもない。立場的には酒井家の陪臣の息子で、主家とはいっても当時将監殿と家康公の仲は良くなかった。それをわざわざ頭下げて貰い受けたって話もある。 #榊メモ

2013-05-12 11:24:04
伊織 @otiea_s

康政は永禄五年に父長政が亡くなると、その弟一徳の養子となる。一徳は元々伊勢で仏門に入っていたと言われ、兄に三河に呼び寄せられ還俗。康政と共に家康公に仕える。でもこれは康政を小姓にするための方策だった気もしなくもない。別家にすれば将監殿との関係も一応は絶てる。 #榊メモ

2013-05-12 11:28:57
伊織 @otiea_s

で、永禄五年初出仕というのは父の死後そのへんの関係を全部クリアにしてから、という見方もできますね。まぁこのあたりは記録として残っていないので妄想レベル。 #榊メモ

2013-05-12 11:30:01
伊織 @otiea_s

永禄六年、三河一向一揆。この時酒井将監殿が三度目の離反。初陣で何をやったのかというのはほとんど記録にないんだけど、御系図には槍を合わせて高名のところ、殿に褒められて偏諱を賜る。とある。上野攻の指揮をとっていた石川家成隊に配属されていたのは間違いなさそう。 #榊メモ

2013-05-12 11:37:40
伊織 @otiea_s

ただしこの時はあくまで一兵卒。館林で見た本には先陣の高名と書かれてたから、一番槍か二番槍か、そんなところかも。童門先生の三河武士本にはその様子が書かれてるんだけど、元記事がどこから出てきたものなのか未確認。家譜にも家伝にも記載なし。 #榊メモ

2013-05-12 11:41:59
伊織 @otiea_s

ただ初陣での働きが素晴らしかったので、康の一字をいただいた。というのは全てに一致してる。詳細ください。 #榊メモ

2013-05-12 11:43:30
伊織 @otiea_s

永禄七年、殿が鳥居元忠殿に命じて康政にふさわしい部下をつけよ、ということで中嶋伊奈伊藤の三名が寄騎となる。翌年中根も寄騎に。このうち中根が一歳年下だけどあとは全部年上かもしれない。中根は榊原家の家老になるから付き合いはこの後死ぬまで続く。 #榊メモ

2013-05-12 11:49:55
伊織 @otiea_s

これ当家の侍分を召し使う初なり、と書かれているんだけど、部下がついたらそれを養えるだけの知行もつくんですがその記録はなし。岡崎では丸山城が榊原式部の城みたいに言われてるんだけど、その記録って榊原摂津殿と混同されてる感がありすぎてつらい。 #榊メモ

2013-05-12 11:55:13
伊織 @otiea_s

余談だけど榊原摂津守忠政殿は殿の駿府行きの時の小姓の一人で、康政の従兄弟って言われてるけど藤原系榊原氏です。本家の系図上では存在しない。 #榊メモ

2013-05-12 11:58:25
伊織 @otiea_s

永禄八年、吉田城攻めで鳥居殿と忠勝と一緒に旗本先手組。この時忠勝が一番槍。御系図には内藤喜六郎と槍を合わせる。とあるから一騎打ちをやったらしいです。この時のことを吉例として、以後は先手の先鋒であることが多い。 #榊メモ

2013-05-12 12:10:58
伊織 @otiea_s

あっ寛政譜に中根がつけられたのは永禄九年って書いてあった。おわびして訂正したします。 #榊メモ

2013-05-12 12:12:41
伊織 @otiea_s

永禄十一年、徳川家は遠州に進出。堀川城攻めにて先手の将となる。この時松平信一殿と先陣争いをして、城一番のり。をしたのはいいけど二箇所の傷をおって、後に見附で殿の見舞いを受ける。家伝に詳細あり。 #榊メモ

2013-05-12 12:19:43
伊織 @otiea_s

永禄十二年久能城が今川から内応の打診があった時、松平忠正、植村家政、三宅康貞等とともに久能城に入って、内応の使者である久能宗益を久能宗憲とともに斬っている。これは武功とはちょっと違うので家譜にはないけれど、立会人的な立場だったのかと。 #榊メモ

2013-05-12 12:29:58
伊織 @otiea_s

永禄十二年三月、大須賀康高殿と同行して掛川城攻め。二の丸まで打ち破る。三河後風土記にはこの時手を砕いて奮戦って書かれてるかな。寛政譜には城をのっとるとあるけどそれは間違いのような。氏真殿は降伏して退去。康高殿と一緒はこれが初かも。 #榊メモ

2013-05-12 12:35:50
伊織 @otiea_s

休憩ー。多分一部の人はTL埋めまくっててすいません。次からは元亀です←

2013-05-12 12:39:19
伊織 @otiea_s

御系図の康政のところだけで50ページある

2013-05-12 17:37:03
伊織 @otiea_s

元亀元年、姉川の戦い。逸話だと一陣の酒井様を横目に無理矢理川を渡ったことになっている。それは多分着陣する前かもしれない。実際本戦では本多広孝殿と一緒に先手組として本陣の備えにいて、頃合いを見て出陣。渡河を躊躇う人達を尻目に、まっさきに馬を乗り入れた。 #榊メモ

2013-05-12 17:42:37
伊織 @otiea_s

しかしこういう無茶をするので、戦いの途中で馬が動けなくなり、敵に囲まれ怪我。その時にたまたま近くにいた土井殿(後の利勝の養父)が一緒に戦ってくれて、わしは達者だからーと親切にも馬をくれたという。そのあと土井様も怪我して榊原の部下と一緒に帰ったけどw #榊メモ

2013-05-12 17:45:30
伊織 @otiea_s

この働きが朝倉に横槍をいれることとなり、朝倉は撤退。この時に、最初に寄騎になった中嶋が討死。後に補充として新谷久兵衛が付属。 ちなみに朝倉って浅井の援軍で来てたので、浅井に比べたら戦意がいまいちだったんじゃないかと思ったりします。 #榊メモ

2013-05-12 17:50:09
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