浅井長政と姉川の戦い
- masakishibata
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5月17日(昨年)
浅井家の動員可能兵力を考察してみる。
浅井家の動員兵力についての考察。浅井家の石高は朽木家を影響下に収めた時点で瞬間的に30万石あったといわれていますが、そこから計算すると動員兵力は6000がギリということになる。
2012-05-17 08:47:38となると、姉川では目一杯まで動員したということになりますが、かなり不自然というか矛盾があるのです。そもそも壊滅的被害を受けたといわれるわりに、3ヶ月後には湖西で大規模な軍事行動を起こしている。それだけの余力があったということです。
2012-05-17 08:50:14また、姉川で捕虜になった安養寺氏種は小谷城に久政と井口家の手勢が新手で控えていることを示唆しており、多少のハッタリはあったとしても、姉川に久政派の重臣の姿がないのも確か。
2012-05-17 08:53:13姉川前に織田家に寝返り、秀吉の寄力となっていた堀家の所領は10万石ほどあったそうですが、その減少分が浅井家の所領に考慮されていない。最初から数に入っていなかったと捉えるしかないでしょう。
2012-05-17 09:00:40そうなると磯野・今井・朽木あたりも同様の扱いで、個別に軍役が課せられていたと考えると、浅井家単独で最大まで動員したわけではなさそう。
2012-05-17 09:05:51今まで、姉川での被害が通説よりも少なかった、もしくは小規模な戦闘であったと推測してきたのですが、浅井家単独と浅井家の影響下にある領主の動員兵力の内訳を検証する価値がありそうです。
2012-05-17 09:08:35浅井家の石高って実際はどれくらい?
朝の続き。浅井家の実際の石高を推測してみた。近江一国で約80万石と仮定し、浅井家の所領は湖北3郡(伊香・浅井・坂田)。12郡中の3郡として、単純計算で約20万石となります。
2012-05-17 20:56:11そこに六角家旧臣を取り込んだ3郡(犬上・神崎・愛知)と朽木家の高島郡を含めて、最大で48万石程度が浅井家の影響範囲ということになります。但し、あくまでも自由に動員できた範囲は最初の湖北3郡+αまでと考えるのが妥当でしょう。
2012-05-17 21:02:19秀吉が今浜に入領した際の石高が約15万石ですので、差分の5万石が堀家の所領となるでしょう。んで、磯野員昌は独自に領主への所領安堵の文書を出したりと独立性が高いため、浅井家分とは別に動員したものと推測。
2012-05-17 21:06:48結局、堀家分を除いた15万石が浅井家単独の所領で、動員兵力は2500。これに磯野家分と高島の湖岸部などが合わさり、合計で5000くらいになったのではないかと推測します。
2012-05-17 21:12:43しかし、安養寺の逸話によると小谷城の残存兵力が2000ほどあったそうで、姉川には阿閉や新庄も独自の所領から動員をかけたか、堀の所領が5万石もなかったかということに。
2012-05-17 21:17:13あ、間違えた。15万石あれば4000近くは動員できるわ。つまり、浅井本隊に2000出して、磯野1000、政澄1000、阿閉・新庄が各500、小谷城の留守役が2000で、ちょうどいい数字になる。湖東や高島は加味していないので、総動員でない。
2012-05-17 21:23:20この状況なら、仮に2000が壊滅しても湖西に3000くらいの軍を展開することは不可能ではなく、姉川の戦いは通説通りの規模と損害だったのではと考えられますね。
2012-05-17 21:26:295月30日(昨年)
姉川での損害とその後の影響について。
姉川での浅井方の損害って、横山城を奪われたり膨大な戦死者を出したこともあるんですけど、それよりも長政の側近連中がほとんど全滅したことのほうが大きいと思うんですよ。
2012-05-30 23:17:57主だった戦死者だけでも、弟の政元に遠藤直経、今村氏直、弓削家澄、浅井政澄・・・長政を担いでクーデター起こした連中のうち、安養寺氏種を残して全滅とか。んで、必然的に長政の家中での影響力が落ちて、相対的に久政派が幅を利かせる。
2012-05-30 23:23:21久政はバリバリ主戦派ですので、かなり強気に家中を徹底抗戦でまとめていったんじゃないでしょうか。佐和山城の切り捨てなども、長政寄りの磯野員昌を排除するとともに、戦力の集約を図ったのではないかと推察するのです。
2012-05-30 23:29:16久政のことを悪く言う意図はないのですが、織田家との和睦や降伏という選択肢を失ったことは確か。ただ、久政は戦った末に自刃して果てましたので、戦国大名としての筋は通したと思います。
2012-05-30 23:39:28本丸に戦闘の痕跡がないことは発掘調査で明らかにされており、むしろ最期においては長政のほうが潔くなかったというか。偽の降伏勧告を受けて投降しようとしたが、拒絶されたので自刃したという、少し可哀相な逸話もあります。
2012-05-30 23:44:07