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装束小ネタ~院政期の流行、強装束と置眉)

いま時代行列や時代劇で見られる束帯等は、実は殆どが復元ではなく現行の衣紋道に基づくもの、つまり江戸期の型。 公家=まろ眉も、平安貴族のものとはちょっと違うかも…? などの小ネタまとめ。+「中古小児の髪風」(過去ツイから) http://twitpic.com/cqxmpz
ログ 平安時代 まろ眉 装束 強装束
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今年の葵祭の写真を拝見して眼福ののち…
逆名 @sakana6634
そういえば、時代行列の衣装とか時代劇で使用される束帯って、「再現」じゃなくて衣紋道での「現行」のものもあって、とくに男性装束一般は、要するに江戸時代の型なんだと思う。もともと、平安初期~中期の装束は資料不足もあって難しいし、史料はあっても院政期の強装束を本気でやるとギャグになる…
逆名 @sakana6634
江戸期の束帯は強装束ではないけど、摂関期ほどの萎装束っていう訳でもない。明治天皇のこの御影は威儀を正すためにかなり張ってるみたいだけど「如木」とまで言われた全盛期の強装束はどんなものだったんだろう… http://t.co/1wYxTiCkRl
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逆名 @sakana6634
【摂関期頃の文官束帯(萎装束)と、院政期に流行した強装束の文官束帯(絵巻等の図像からの想像図)】 摂関時代はまだ唐風(胡服)の名残をとどめて細身、柔らかく身に沿う。院政期は糊を張って肩や袖を直角的に見せた http://t.co/Vb2FJd79Rc @TwitPicさんから
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逆名 @sakana6634
【摂関期と院政期の束帯】冠:摂関期の巾子は幞頭の名残でまだ太く大きかった。纓の先は円く、巾子の根本から垂れる。摂関期には纓も硬くなり、反り立つ(江戸時代には更に反る位置が高くなり、帝の料はついに垂直に立つ立纓となった※明治天皇御影参考)纓の先は四角くなった。
逆名 @sakana6634
【摂関期と院政期の束帯姿】袍(1):院政期の領(えり)は高い。重ね着が多く、更に糊を張った「打衣」で内側からも形を整えた。懐が膨らんだので、石帯はまともに締められなくなり、セパレート式になってしまった。他にも裾や下襲が二部制になる等の改変がなされた。
逆名 @sakana6634
【摂関期と院政期の束帯姿】袍(2):摂関期に比べて院政期は身頃の幅が広くなり、袖も広くなった。文官の料である縫腋袍(脇を縫い合わせる)は動きやすくするために裾に襴(プリーツ)を入れたが、院政期には襞を延ばしてしまい「蟻先」となる。下襲の裾(きょ)も長くなった。
逆名 @sakana6634
【摂関期と院政期の束帯姿】院政期に下襲の裾などに「おめり」が施されるようになった。裏地を少し大きく裁って折り返し、表の縁取りとした。これは女性装束にも行われた。かさねの色目を引き立てるもの。 なお強装束では着付けが大仕事になり、着付け専門家「有職師」が生まれることにもなった。
逆名 @sakana6634
男性の涅歯点眉はもとは元服前後の少年の風だったのを、院政期くらいからから二十歳あたりまで伸ばしたりとかなので、公家=まろ眉っていうのはもう少し後になってから多分、思っているより江戸期の公家のイメージが浸透しているんだと思う。とくに時代劇のヴィジュアルでは。
逆名 @sakana6634
でも、江戸時代劇で出てくる公家の方が、きっちり化粧したり京言葉だったり、普段着だと道服で烏帽子も脱いじゃうことがあったり、史料もあり時代も近い分作り込まれてたりするから、仕方がないんだろうなとは思う。
逆名 @sakana6634
性は早くから、理髪裳着前後に置き眉してたんだよね。お歯黒の方がずっと昔からあったらしいけど(縄文時代とかに歯を抜いていた風習の代わりに黒くした説とか)だからそれを少年がやり出したのはどういうアレなのかなーフフーン♪
逆名 @sakana6634
我等が足穂先生は、成人公家男性も置眉しだしたのを、院政期の男色流行と繋げて「稚児趣味」って仰っておいでだけど、自分ではまだきちんと確証が得られてないです…。
逆名 @sakana6634
あと、平家の公達も置眉してたようです。権勢のある勢力がファッションの先端を行ったりするみたいなことだと思う。
逆名 @sakana6634
男性の置眉は、元服前後の若年は位置高く、太い八の字。上臈は上先端が丸く太く、下に細くしてぼかす。下臈は下端を跳ね上げる(ちょうど髭マークみたいな)歳が長じると位置を低く、八の字から少しずつ水平にしていく。
逆名 @sakana6634
稚児の眉もこうだったらしい。げに史実とはかくも無情なり。  ちなみに絵の出典「稚児観音縁起絵巻」からですが、拙宅で詞書を現代語訳してますのでよろしければ。(※醍醐寺秘蔵のとは別物です)http://t.co/vqJ65Bcluf http://t.co/9Yvgmnlza3
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逆名 @sakana6634
男性の置眉の始めについては「海人藻芥」に『凡彼御代(※鳥羽院)以前ハ男眉ノ毛ヲ抜キ鬢ヲハサミ金(※鉄漿)ヲ付ル事一切無之』などとあり。 参考資料は「有職故実大辞典」『置眉』の項(吉川弘文館)、「王朝の風俗と文学」(中村義雄/塙選書22 塙書房)などです。
逆名 @sakana6634
寝る前に言い置くけれど、強装束も男性の置眉も「史実通りにやるとギャグ」っていういい例なので、ドラマとかでは推奨しない。TSHならやってくれるかもしれない。見てみたい。でも一般受けはしないだろう。私だって絵的にどうかって聞かれると笑います。
逆名 @sakana6634
でも、まろ眉=リアル志向とは限らないよ~とか、ステレオタイプとかイメージなんてあやふやなものだよ~とか、でも、その「イメージ」を形作っているのが何かを考えるのも面白いよ~とかいうことでひとつよろしく(寝う
逆名 @sakana6634
あたしだってェ~ ぶっとい八の字の稚児とか~ いやだ~ じぶんの好みの絵柄で~描きた~~い~~ああ~~ごめんなさいごめんなさい稚児観音さま踏まないでいやどうぞお踏み下さいませ(寝言

逆名 @sakana6634
夕べの眉の話関連、中近世のものですが図版を。 左上>騫驢嘶余(天正二(1574)年成立)群書類従所収(NDL) 右上>竹屋家文書『眉作記』(江馬務著作集第三巻所収『化粧史』より) 下>有職故実大辞典(吉川弘文館)置眉項 pic.twitter.com/iyk6oZ5hXJ
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逆名 @sakana6634
騫驢嘶余は寺文の、ほか二つは公家の風俗です。 公家男性は童子の頃は八の字(上臈、末を跳ね上げ勾玉型にするのは下臈、近世の区別か?)元服前後~二十才前後には横棒の引眉になっています 元服後もしばらく白粉を塗り眉を描き歯黒めをし出したのは院政期、鳥羽院の頃とされています(上記資料より
逆名 @sakana6634
風俗博物館の平安時代公卿画像から iz2.or.jp/fukushoku/f_di… 直衣の蟻先があるので平安末期ということになりますが、若年で引眉になってます。丸眉ではありません iz2.or.jp/fukushoku/f_di… こちらは年も上になって描眉なし
逆名 @sakana6634
ちなみにこれらは「(資料では)当時はこうだった」というだけで、それを御存知の上で異なったスタイルを選択されている方はそれでいいと思うのです。私もいつもみっちり史実に忠実に描けている訳じゃないですし正直稚児の八の字眉毛ボーンを本気で描くのはつらいですし昔の絵を見るのは恥ずかしいです
逆名 @sakana6634
作品や登場人物に対するファンの方の好意を否定するものでもありません。 ただ、一昨年の大河が公式で(服飾関係では特に)根拠の薄い『これがリアルだ』的な発言を頻発していた影響で『実際ああいう風だった』とお思いの方には、いやいやいや…と柱の影から念を送りたい…という鬱陶しいアレです
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コメント

逆名 @sakana6634 2015年2月9日
追補してまとめを更新しました。
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