歴史秘話ひすちょりあ~東大寺再建の陰に 平家と重源上人、そして阿波民部~

定期ポストのうち、東大寺再建に関する部分ををまとめました。
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平 資盛 @sukemori_t

サネタソこと源実朝殿配下の大江ひろもっちゃんこと大江広元殿が昨年夏開催されていた「頼朝と重源展」のみどころをまとめてくれました→ 「頼朝と重源」展 ~夏の南都へ源頼朝像に会いに行く~ http://t.co/v0laTyUiQH

2013-05-18 15:28:26
平 資盛 @sukemori_t

東大寺再建に尽力された重源上人は、平家と実に深いゆかりがあります。 私の弟宗実は藤原経宗殿の養子となり、公家としてその生をまっとうするところでしたが、平氏滅亡とともに重源上人のもとで出家しました。 (後に鎌倉下向途中で食を絶って自死

2013-05-18 15:28:44
平 資盛 @sukemori_t

本三位中将殿が斬首されたのち、正妻大納言佐殿は重源上人に請うてその首を貰い受け供養なさいました。 大納言佐殿の姉、成子殿は、重源上人の意向で東大寺僧が伊勢神宮に赴き大般若経供養をした時、その一部を提供なさいました。

2013-05-18 15:28:59
平 資盛 @sukemori_t

本三位中将重衡殿のご正室大納言佐殿の姉君、成子殿は六条帝の乳母を務め、帝の崩御の9年後、帝の供養を下醍醐で営みましたが、その導師を務めたのが醍醐寺座主勝賢上人。勝賢上人は重源上人と親しく、その頃重源上人に請われ東大寺の大仏に舎利を籠めるため上醍醐で百ケ日供養をなさっていました。

2013-05-18 15:29:18
平 資盛 @sukemori_t

本三位中将殿は文治元年六6月9日鎌倉を出立、21日前後に大納言佐殿と会われ、23日に斬られました。 4月23日から8月18日に仏舎利供養、23日大仏に奉籠、大仏開眼は8月28日でした。 ちなみに、この年の5月、池殿が東大寺にて出家されています。

2013-05-18 15:30:28
平 資盛 @sukemori_t

「東大持続要録 造仏篇」には、「かの妻室、重衡の所持物の内、金銅具を持って奉らしむ。」と、大納言佐殿が東大寺再建の際、重源上人に寄進されたという記録が。但し、「かの銀銅を以って大像を鋳加え奉らんと欲するの処、炉忽ち破裂せしむ。即ちかの金銀の類、本質を変えず、皆以って流れ出づ。」と

2013-05-18 15:29:35
平 資盛 @sukemori_t

.。o○(本三位中将殿の罪業は赦されなかったということでしょうか。゚(゚´Д`゚)゚。 )

2013-05-18 15:30:04
平 資盛 @sukemori_t

当寺の浄土堂は、もとこれ阿波国に建立するなり。願主はかの国の住人字阿波民部大夫重能也。但し、仏像、未だその功を終えざるなり。重能は清盛入道の郎従、当寺焼失の乖将也。逆乱の長たる故に、遂に誅戮され畢んぬ。彼らの罪根を救わんがため、この堂宇は鐘堂崗に建つる処なり(東大寺造立供養記)

2013-05-18 15:30:41
平 資盛 @sukemori_t

阿波民部重能は、もともと平家に仕えていましたが、壇ノ浦で源氏に寝返り、それが平家滅亡の一因ともなりました。この「功績」に対し、鎌倉は火あぶりの刑で報いたとも。将軍ぐっじょぶ( ー`дー´)キリッ

2013-05-18 15:31:16