- masakishibata
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5月16日
何となく石田家臣団に興味を持った昼下がり。
全然関係ないですが、石田三成の家臣団の名簿みたいなものを見つけて眺めていたのですが、赤尾・雨森・海北・磯野・今井・丁野・田辺・上坂・百々・三田村・中島・河瀬・国友・多賀と見事に浅井家臣団で驚いた。
2013-05-16 12:47:08これを見ていると豊臣秀吉は浅井家の下層家臣を、石田三成は上層家臣を取り込んでいるみたいだな。秀吉が連れて行かずに近江に残った土地への執着が強い層が後に三成の家臣になったみたいなことかな。
2013-05-16 12:50:40「石田三成の側近といえば?」の疑問。
なんで石田三成の家臣団リストを見ていたのか思い出した。「無双では島左近が、BSRでは大谷吉継が三成の側近面しているけど実際はどうなんだ」的なネタを書こうして決定的な人名に巡り合えずに挫折したんやった。
2013-05-16 19:56:48石田三成の側近、か。代表的な家臣としては、島左近・前野忠康(舞兵庫)・蒲生郷舎・磯野行信・杉江勘兵衛・渡辺勘兵衛・塩野清助・大橋掃部などなど、だな。
2013-05-16 23:48:30候補1:渡辺勘兵衛。
この渡辺勘兵衛の逸話。あるとき、柴田勝家が1万石で勘兵衛を召抱えようとして断られ、羽柴秀吉は2万石で召抱えようとしたところ「10万石でなければ嫌だ」と断わられました。それを僅か500石の身代であった三成が召抱えたという。
2013-05-16 23:56:37何が起こったかというと、三成は「知行のすべてを勘兵衛に与えました。私は勘兵衛の居候です」と答えたそうな。知行の半分どころじゃねー。
2013-05-16 23:57:46そのときの約束として、三成は「自分が100万石を得たときに10万石を与える」と言ったそうです。しかし、勘兵衛は最後まで500石のままで三成に仕えました。
2013-05-16 23:58:445月17日
候補2:小幡信世。
日付が変わったけど続けるおっ!「三成の近従」と紹介されている人物が少ないなぁ。磯野行尚と小幡信世の2人しかいなかった。特に小幡はかなり長く三成に仕えているみたいで、近従と呼ぶなら勘兵衛よりも適しているかも。
2013-05-17 00:22:58小幡信世は上野国出身の人物で、1593年頃に15歳で石田三成に小姓として仕えた。関ヶ原での敗戦後、近江の石山寺に隠れていたところを捕らえられ、徳川家康の前に引き出される。三成の居場所を聞かれるが「たとえ骨になろうと申し上げるわけにはいかない。拷問にでもかけてみられよ」と言う。
2013-05-17 00:27:44その堂々とした態度に感服した家康は彼の縄を解き、身柄を解放した。しかし、佐和山落城の報を知らされると、これ以上の生き恥は晒せぬとその場で自害した。
2013-05-17 00:29:18いた・・・いたよっ!小幡信世が信長の野望・天道のタイアップ武将にいたよっ!!!武勇83、義理98、足軽適正A、騎馬適正S・・・ってどんだけ厚遇やねん。
2013-05-17 12:23:28候補3:磯野行尚。
豊臣政権における五奉行の一人・増田長盛の次男、増田盛次。彼は関ヶ原の後に徳川義直に仕えていました。しかし、大坂夏の陣を前に義直の元を出奔し、豊臣方として大坂城に入城。長宗我部盛親隊の主将として八尾に進軍した盛次は藤堂高虎隊と交戦します。
2013-05-17 01:04:49一時は優勢であったものの若江方面の味方の壊滅により孤立し、長宗我部隊は敗走。殿軍として戦場に留まった盛次は藤堂隊の磯野行尚に討ち取られました。
2013-05-17 01:05:20その際、盛次は名前や身分を示すものを一切身につけておらず、誰の首であるか判明しないままとなっていました。それから5年後、行尚の屋敷に一人の老女が訪ね、こう言いました。「先年の大坂の陣で錦の羽織を着た大将を討ち取り、その者の刀を取られたと聞きましたが間違いありませんか」、と。
2013-05-17 01:06:28