開元通宝アイコンの人が開元通宝を語る

開通元宝だろという異論は受けつける
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儀狄@パブリックエネミー @giteki

ふと思い立ったのでこんなタグを作ってみる #突発開元通宝語り

2013-05-21 19:48:07
儀狄@パブリックエネミー @giteki

私のアイコンでもおなじみの(←フォロワー限定)開元通宝にはいくつか語るべき特徴がある。まず何と言っても、”東洋の古銭”と言われて思い浮かぶ「円形に四角い穴の銭」の基本となったことが挙げられる。日本の寛永通宝だけでなく、朝鮮やベトナムにも似た銭がある #突発開元通宝語り

2013-05-21 19:53:41
儀狄@パブリックエネミー @giteki

ついでに言うと銭がほぼ統一規格なのでしばしば重量の単位にもなっている。王朝中国では"銭"という重量の単位があり(貨幣単位は日本と同じく"文")、およそ3.73gである。日本の匁は"文目"に由来し、1匁=3.75gである。今でも真珠の取引には使うらしい #突発開元通宝語り

2013-05-21 19:57:17
儀狄@パブリックエネミー @giteki

ここまで断りなく”開元通宝”と書いてきたが、実はこの銭をどういう順番で読むかはいまなお分かっていない。唐代の史料には”開元通宝”と”開通元宝”の両方の表記が見られる。なお唐には開元という元号があるが、開元通宝の初鋳(621)より後の元号(713-741)である #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:03:22
儀狄@パブリックエネミー @giteki

後代にも定着した読みが無かったらしく、宋朝の最初の銭『宋元通宝』も『宋通元宝』という読みが見られるし、宋銭は主に元号から『~~通宝』『~~元宝』という名前なのだが、通宝だけのもの、元宝だけのもの、両方あるもの様々である。銭が通宝で定着するのは明になってからか #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:05:52
儀狄@パブリックエネミー @giteki

明は通宝だけだよな……と思って念のために検索したところ、清に至っても康煕元宝と康煕通宝、乾隆元宝と乾隆通宝は両方存在することを発見したなう #突発開元通宝語り

2013-05-21 23:06:08
儀狄@パブリックエネミー @giteki

開元通宝の鋳造はほぼ唐一代を通じて行われているが、総鋳造枚数は6000万貫文ほどである。宋銭の総鋳造枚数(2~3億貫文とされる)よりは少ないが、それでも寛永通宝の発行数が1000万貫文程度と言えばどれほどの量か想像がつくだろうか #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:09:24
儀狄@パブリックエネミー @giteki

これほどの枚数が鋳造できた理由は、製造面の技術が進歩したからである。南北朝時代までの銭はいちいち鋳型を手で彫って作っていたが、唐に入って母銭方式が開発されたのが大きい #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:11:06
儀狄@パブリックエネミー @giteki

鋳造するとき、完成品そのものを元に鋳型を作ると期待される完成品よりも少し小さくなる、らしい。なので最初に大きめの銭(母銭)を作り、それを元に鋳型を作って銭を鋳造する。母銭は鋳型を作るときしか使わないから痛みにくいというのが母銭方式 #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:13:50
儀狄@パブリックエネミー @giteki

これが宋に入るとさらに、銭の文字を活字で作るようになったから多様な年号銭が生まれる、それは事実。だが、唐代にはその技術が無かったから開元銭しか作っていない……と思った人は間違い。実は唐は何度も開元銭以外を作っている。そして流通に失敗している(笑) #突発開元通宝語り

2013-05-21 21:47:26
儀狄@パブリックエネミー @giteki

唐朝もそれ以降の王朝も,当二銭(二文銭)、さらには当三や当十などの銭を発行しているのですが、せいぜい流通させることができたのは当二まででそれ以上の額面で流通出来たのは清朝末期になってからです #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:20:00
儀狄@パブリックエネミー @giteki

まあともかく、唐朝は何度も開元通宝を廃止して代わりの当三や当十銭を流通させようとして失敗し、唐一代のおよそ300年間を通じて開元通宝の発行は続きました。え、それ以降も鋳造されてるって? それはまたの機会に…… #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:22:22
儀狄@パブリックエネミー @giteki

五代十国も銭を発行はしていたはずなのですが王朝ごとに1,2種類でまた発行量も少なかったようです。宋の天聖年間(1023-32)に銭流通の実体を調査した結果によると、『流通する銭のうち唐・五代銭が三割、そのうちの九割は開元通宝』(意訳)だそうです #突発開元通宝語り

2013-05-21 20:30:01
儀狄@パブリックエネミー @giteki

重量の単位になってると言っても、開元通宝の大きさ・重量は多少のずれはある。と言っても、唐前期~中期は大きさ24~25mm、重さ3.7~4.2gだから統一感としてはまともな部類なのではなかろうか #突発開元通宝語り

2013-05-21 21:03:45
儀狄@パブリックエネミー @giteki

成分は唐を通じて銅60~75%、鉛10~25%、錫10%前後で変わらないというか、耐久性などを考慮するとなかなか変えられなかったんだろうなあ。なので王朝後期で財政が厳しくなると、変な成分が混じるのではなくダイレクトにサイズと重量自体が小さくなる #突発開元通宝語り

2013-05-21 21:04:46
儀狄@パブリックエネミー @giteki

開元通宝の凄いところは、流通期間が千年を越えているということである。唐や五代の間はともかく、宋の間も流通は認められていた。元に入って銅銭使用は禁止されたが、明になると再び銅銭使用が復活する。明の銅銭発行量が不十分なため、宋銭も流通していた #突発開元通宝語り

2013-05-22 15:19:56
儀狄@パブリックエネミー @giteki

明代には、開元通宝を私鋳していた記録がある私鋳するということはつまり、本物も流通していたということである。(ちなみに明だと私鋳銭だから質が悪いと一概に言える物でもないが流石に見た目の新しい・古いは隠せなかったらしい) #突発開元通宝語り

2013-05-22 15:21:50
儀狄@パブリックエネミー @giteki

さらには清朝になってすら、康煕帝の頃には順治銭や康煕銭だけでなく、宋銭や明銭や低銀(純度の低い銀)が小額通貨として流通し、乾隆帝に至るまで撰銭と銭貴(銀との相場における銭の価値高)に悩まされ、しばしば王朝自らが銀・清銭・宋銭のレートを定めている #突発開元通宝語り

2013-05-22 15:34:07
儀狄@パブリックエネミー @giteki

銭貴は最終的には乾隆通宝の大量鋳造で収まるわけだが、逆に言うと開元銭を含む宋銭は早く見積もっても乾隆帝初期まで流通していたわけである。621年から始めて、元朝の流通禁止期間を除いても間違いなく千年越え #突発開元通宝語り

2013-05-22 15:37:24
儀狄@パブリックエネミー @giteki

日本にいると意識しないが、現在も発行されている硬貨で穴の開いているものは実は大変珍しい。昔は材料節約の意味があったらしいが今では明らかに穴を開ける加工コストの方が高いはず。極希に穴の位置がずれていたり無かったりする五円・五十円玉があり、それらは高値で取引される #突発開元通宝語り

2013-05-21 21:23:32
儀狄@パブリックエネミー @giteki

穴あき硬貨は明治には無かったのだが大正に入って五銭硬貨で復活して現在まで続いている。方孔ではなくなったが、まあこれも一つの『唐朝の遺風』だと言っていいんじゃないかな #突発開元通宝語り

2013-05-21 21:25:16