幕末史のざっくりしたまとめと新・徳川家と会津がなぜ薩長に敗れたか
さて、ここからちょっと連投します。話題は幕末史に関する個人的な説明orまとめ的なもの。たぶんけっこうな量になりますので、興味のない方は #幕末史私見 でミュート、あるいは(一時的にでも)リムーブなど、対応していただけると助かります。お手数をおかけしてすいません。
2013-06-01 01:04:10先日、大河ドラマ放送後にある方へのリプライとして「幕府と徳川家がなぜ薩長に敗れたか」という連続ツイートを行ったのですが、あとで読み返してみると「薩長がなぜ幕府と徳川家に勝ったか」という真逆の内容になっていました。 #幕末史私見
2013-06-01 01:04:42自分の説明の下手さに呆れましたが、そこで改めて敗因を考えるとともに、そのための前提として幕末の全般的状況を「権威」と「攘夷」というふたつのキーワードを用いて説明することにしました。 #幕末史私見
2013-06-01 01:05:28自分の頭の中を再整理するとともに、大河をきっかけに幕末に興味を持った方向けです。ですので大河の補足情報として理解の役に立つよう、できるかぎり分かりやすくなるよう心がけました。そのためかなりの部分を端折っています。どうかご了承ください。 #幕末史私見
2013-06-01 01:05:47では次から本題です。箇条書きや解説が入り混じる文章ですので、もしかしたら読みにくいかもしれません。もし不明な点や間違いなどありましたら、遠慮なくご質問、ご指摘などいただければ幸いです。なお対応は連投終了後に行います。 #幕末史私見
2013-06-01 01:08:13◎幕府と徳川家がなぜ薩長に敗れたか 端的にいえば「朝廷」と「幕府」、どちらが国内最高位の権威であるかという争いに敗れたから。 #幕末史私見
2013-06-01 01:09:08※名目上の最高権威が帝と朝廷にあることは万人が了解しているところ。つまりすべての陣営は「尊王」「勤王」だと自己認識している。 問題はその権威が実質的ものも含むとするのか、あくまで象徴的な(名目上の)それに留まると考えるのか。 #幕末史私見
2013-06-01 01:09:46●主な主張と理想像 ▼「朝廷」優先 幕府も含め、すべては帝と朝廷に従うべき ▼「幕府」優先 帝と朝廷を戴いた上で、幕府が全権を委任されるべき #幕末史私見
2013-06-01 01:10:28●政権論と具体策 これらから生まれた主な政権論や具体策は以下の5種類。 ▼の()内はその論や具体策を奉じる勢力の総称。 :のあとは前述の主張と理想像に対するスタンスを表す。 #幕末史私見
2013-06-01 01:12:57▼幕権維持・強化 (幕権維持派):「幕府」最優先 これまでどおり、幕府が朝廷から委任された政権主体として活動する。諸藩はあくまで指示に従う存在に留まる ・江戸の幕閣 →ペリー来航以来の社会不安に対応できず。最終的に打倒される #幕末史私見
2013-06-01 01:13:37▼公武合体 (公武合体派):両者のバランスを取る 朝廷から信任された徳川家と有力諸藩が、連合体として政治を行う ・松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、島津久光(薩摩)、初期の岩倉具視など →幾度か試されたが提携できず失敗 #幕末史私見
2013-06-01 01:14:21▼徳川大君主義 (徳川大君派):幕府→徳川家優先 徳川家を近代的政権主体として再構築し、全国を治める ・徳川慶喜など →改革途中で打倒される ※モデルはナポレオン3世(1世?)のフランスか #幕末史私見
2013-06-01 01:15:04▼王政復古 (王政復古派):朝廷最優先 すべてをリセットして古の昔に戻り、帝が直接政治を行う ・後期の岩倉具視、朝廷中~下級公家グループなど →最終的に成功 #幕末史私見
2013-06-01 01:15:29▼武力倒幕 (倒幕派):朝廷優先 諸問題を解決できない幕府は打倒されるべき ・西郷隆盛など →最終的に成功 #幕末史私見
2013-06-01 01:15:52☆最終的には王政復古+倒幕派が幕権維持派、徳川大君派を打倒。公武合体派は何度か実行の機会をつかんだが失敗、過半が王政復古+倒幕派に合流した。 #幕末史私見
2013-06-01 01:16:25●2つの攘夷論 上記に加えて、最大の問題であった西欧列強への対策、つまり「攘夷」をどのように行うかで各勢力の主張と行動が分かれる。 こちらも攘夷を行うことはほぼ万人の了解で、その時期と方法によって大きく2種類に分かれる。 #幕末史私見
2013-06-01 01:17:07▼大攘夷 大きく遅れている現状を鑑み、外国の文物を取り入れて国力を高めてから列強に対峙すべき ・幕府、越前、土佐、薩摩、初期の長州など ▼小攘夷 現状を外国の侵略(の第一歩)と考え、即座に彼らを打ち払うべき ・中期以降の長州、浪士たちなど #幕末史私見
2013-06-01 01:17:46※最終的には大攘夷となったが、しばしば状況を大きく動かす原動力に(良くも悪くも)なったのは、小攘夷を掲げる勢力の過激な行動だったことに注意。 #幕末史私見
2013-06-01 01:18:29●孝明帝という「玉」 象徴的な国内最高位の権威である孝明帝の信条は「攘夷」「避戦」「親幕」だった。 その一部分を各勢力に利用される反面、その行動を妨害するため別の一部分を反対勢力にも利用され、幕末史の複雑怪奇な展開を生む一因となった。 #幕末史私見
2013-06-01 01:19:04このように、各勢力がどの政権論or具体策を採用し、かつどちらの攘夷論を選択したかで各々の立場が決まった。 #幕末史私見
2013-06-01 01:19:45ただ薩摩や長州、岩倉具視などは状況の変化に応じてその立場を変えており、また勢力個々の内部でもどの路線を進むかでしばしば内紛が発生していたので、立場が固定化されていたわけではない。 #幕末史私見
2013-06-01 01:21:33また小攘夷派にせよ王政復古+倒幕派にせよ、当時の情勢下では少数派だったことにも注意。一番多かったのは公武合体+大攘夷派。後者が圧倒的多数だった他派に勝てたのはギリギリだったし、前者は主張を貫徹しようとして大きな犠牲を払った。 #幕末史私見
2013-06-01 01:22:53◎展開 ▼初期 ペリー来航をきっかけに、幕府周辺で幕権維持派と公武合体派が抗争。条約勅許問題をきっかけに「朝廷」優先論が登場、全国に広まる。 ・ペリー来航、安政の大獄、桜田門外の変 #幕末史私見
2013-06-01 01:24:51▼中期1 「朝廷」優先論のおかげで政治的重心が京にも生まれ、江戸の幕権維持派と京の公武合体派が一進一退の攻防。この間に長州や過激浪士らの小攘夷論が勢力を伸ばし、朝廷を席巻する。 ・会津藩京都守護職就任、木像梟首事件 #幕末史私見
2013-06-01 01:25:54