丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年6月)

批評家・丹生谷貴志氏の2013年6月分のツイートをまとめました。
人文 丹生谷貴志
0
nibuya @cbfn
井上忠『究極の探求』、持っていた筈が見つからないので古書で見つける。原価が6800円、高価ですね。「最近の若い人は本を読まない」なんて嘆く?以前に、この値段で「若い人」の誰が買うか? 「知識人」標榜連中なんてどうせ大方公費か献本で本を「仕込む」から価格に鈍感なのかしら?
nibuya @cbfn
この手の本が高価にならざるを得ない現状は充分知ってますけれども、「是非とも読みなさい」学生さんに言いたい本の大部分がこれじゃ、困ってしまいます。・・・それはともかく、井上先生の仕事はもっと読まれるべきだと思います。意外なまでに著作の少ない方だからいっそ筑摩あたり文庫で著作集を!
nibuya @cbfn
井上先生の終生の主題の中心と思われるものは本来小説家や詩人には「自明の」ものである「筈」のこと、それを「哲学的理性」の主題にすると言えば今更と思われるかも知れませんが言わば「顕」によって「密」を透明な糸にして哲学を織り直そうとする営みは不思議なまでに明るく透明な服飾を思わせて・・
nibuya @cbfn
頓狂かも知れませんが僕は、例えば円城塔さんの営みとかを井上先生の思考世界と連結して想像することがあります。いや、思いつきに留まるのでしょうが、ともかくそういう気を起こさせてくれるだけでも希有のことです・・・
nibuya @cbfn
例えば「言葉たち」といった言い方に蓮實風臭みを感じる向きもあろうけれど、そしてそれも分からないではないが、この言い回しに、日本語には複数形がないという不便の苦しさを読み取ることも出来るので、例えばchairsといった簡単な一言を日本語は”訳せない”のだ。「椅子たち」でよろしいか?
nibuya @cbfn
「言葉たち」という言い回しの気持ちの悪さは「〜たち」という「複数化」の語が本来生き物に使われるものであることから来るだろう。「言葉たち」という言い回しにおいて言葉が不意に生物化されてしまう落ち着きのなさ? 逆に言えば日本語は辛うじての複数形をアニミズムにおいてしか持たない?
nibuya @cbfn
別の話(?)ですが『ハサミ男』でしたかみたいなトリックの推理小説は形容詞やらに性別の必要な西欧語には訳せない・・・少なくとも翻訳困難です。まあ英語には厳密な意味での「未来形」がないとか、色々です・・・
nibuya @cbfn
wiilとかshallとか、助動詞を使うことで未来を表す・・・厳密に?訳せば、「The chair will be broken.」は「椅子は壊されることを意志する」となるんでしょうか。無論冗談ですが、英語には「未来」を「意志的選択領域」としてのみ捉える本性があるのかもしれません
nibuya @cbfn
昔近所の小さな小料理飲屋に夜中入ると赤ん坊を抱いた女性を囲んだ家族らしい五人、ひたすら赤ん坊を覗き込み笑う団欒、飲屋の大将も微笑で覗き込む。こんな夜中に赤ん坊を連れ歩くのかと帰り際に覗くとそれは精巧な人形だった。要は彼らは狂気の女性を囲んだ円居だった。今後もああして過ごすのだろう
nibuya @cbfn
今気づいたのですがシマックの『Highway to Eternity』の原書、奇妙なことにカバーにはそのように記されているのに中はすべて『Highway of Eternity』となっている。「to」と「of」の違いですがこれは誤植なのか意図的なのか。正しい題はofの方のようです
nibuya @cbfn
因にこれは僕は如何にもシマックらしい傑作・・・SF小説で「傑作」という言葉は乱発され過ぎて空疎ですが、ともかくシマックの「らしさ」が『都市』以上にきちんと置かれたものだと思います。邦訳はないのですね。まあ、「今の読者」の好みではないかしらね。
nibuya @cbfn
ofとtoの違いですが、書中にも「帽子男」という奇妙な存在と主人公の一人の対話の中に出て来ます。「ここは永遠のハイウェイだ」「永遠へのハイウェイ?」「違う永遠の、だ」「永遠に向かう道?」「違うここが永遠なのだ。だからどこも行けない・・・」。どちらの題がシマックの真意だったのか。
nibuya @cbfn
この長篇は1987年に出ていますから彼の死の前年ですね。執筆時期までは調べてませんが、ともかく最後の作品になります。83歳の時の出版です。繰り返しますが、いい感じの小説です。
nibuya @cbfn
ヴォークトの『ビーグル号』とは感じが違うにしてもシマックの奇妙な生物を描き出す自然さはその代表作『中継ステーション』でも周知ですが、この最後の作品でもむしろ若々しいくらい艶やかに躍動していて、こっちの目がキラついてしまうほどです。
nibuya @cbfn
知り合いに、ロラン・バルトの本質的な政治性、文字通りの意味での(?)政治性を無視し「穏やかな美的思考」として本郷で講義を続ける教授を授業中に怒鳴りつけ、即刻退学した男がいて、今は編集者をしている・・・といっても、もうヴェテランの年齢に属する男ですが。
nibuya @cbfn
言語は本質的にファシストである。従って我々は本質的にファシストである。ファシストへの闘争、ファシストであるしかないことに於ける闘争は言語自身の別の本質である自壊作用に同化することの試みに於いてしか有り得ない。自家撞着としての闘争。・・・バルトはそのコレージュ授業で闘争を表明する
nibuya @cbfn
田中小実昌さんは井上忠さんと東大哲学科で同級生だった・・・もっとも、田中さんは殆ど講義に出ずに除籍、ということになっていますが、終生”哲学的作家”であったことは、今や周知? 不思議な人・・・
nibuya @cbfn
フーコーの映画への悪趣味?については蓮實さんが仄めかしているが、小説についても絵画についても、さらには多分音楽についても、フーコーが奇妙なくらい「趣味」を欠いていたのではないかと思うことがある。彼にはそれらに関して、傑作とか駄作とかいった判断の感覚がなかった、そんな感じがするのだ
nibuya @cbfn
そしてそれをフーコーが意図的に選んだのか或いは資質的なものであるのかはともかく、その感じは、フーコーの欠陥、或いは欠点ではなくてむしろ、それ故にこそ彼をなお未だ不気味な異物としている何かなのではないかと、僕は思っている
nibuya @cbfn
フーコーを「異常に頭のいいサル」と言ったのは蓮實さんだったが、蓮實さんのその表現の意図はともかく、その形容はフーコーという人の文字通りの「異例性ーアノマリー」を的確に射ているのではないかと思うことがある
nibuya @cbfn
仮説。例えばフーコーがマネに拘る時彼はマネを画家として重要視し愛したのではなくてむしろ、フーコーはマネとして自らを感じていた。さらにルーセルを語る時ルーセルはフーコー自身だった・・・。一種のプラグ・イン・・・ディレーニイの『ノヴァ』等における船と機関士の脊椎プラグでの同化のように
nibuya @cbfn
今の「仮説」に関しては説明が必要・・・試みること・・・・
nibuya @cbfn
この季節は怪談だと期待してもYouTubeには、稲川淳二にしてももうワンパターンしかアップされないので詰まらなすぎます。ふと黒沼健という名を思い出し、僕の世代は世界の怪奇やら謎の文明、怪物話のあらかたを黒沼さんで読んだ。三島由紀夫や吉田健一さんが愛した怪奇もののプロ書き手だった
nibuya @cbfn
残念ながら、疲労幻覚を除けば「霊体験」めいたものをしたことがない。何か損した感じです。前も書いたと思いますが神戸で住んでいたアパートは地区では飛び降り自殺の「名所」で、住んでいた間に六人の飛び降りがあり「幽霊高層」と言われてましたが幽霊めいたものは見なかった・・・
nibuya @cbfn
馬鹿話ついでに加えると、「自殺の名所」と言われてから、下のピロティーが小さな暴走族の溜まりになっていたのがそれきり誰も来なくなったのは大笑い。一方、新聞配達が怖がって朝刊が届かない・・・のは、新聞をとったことがない僕には関係ないことでしたが。
残りを読む(119)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする