「革命」について 斎藤桂太氏×千坂恭二氏
生活に忙しい人は革命運動などやる暇が無いが、反対に革命家は普通の日常生活をやるような暇がない。だから革命家の日常は、その場しのぎのようなものとなり、日常を真面目に生きている者からすると、何を考えているのか分からない代物になる。
2013-06-02 11:23:13普通の日常生活をやる暇の無い革命家は、では普段は何をやっているのか。何もやっていない。何もせずにひたすら、その時に備えているだけだw
2013-06-02 11:25:20日常を真面目に生きることを「革命」と定義しよう。(提案) @Chisaka_Kyoji 生活に忙しい人は革命運動などやる暇が無い。革命家は普通の日常生活をやる暇がない。だから革命家の日常は、その場しのぎになり、日常を真面目に生きる者からすると何を考えているか分からない代物になる。
2013-06-02 11:31:09@saito_ke_ta 日常生活を真面目に生きるのは、生活を良くしようとする改革の範疇でしょう。革命は、存在論的に生活の外を内実としますから、その意味からすると、日常に対してはその否定になると思いますが。
2013-06-02 11:38:07@saito_ke_ta 革命は日々にあるのではなく(日々にあるのは革命とは似て非なる改革です)、日々の外に、いわば無いものとしてあります(あることを実体化出来ませんから)。革命家の任務は、単に待つのではなく、日々、実体化出来ない革命の存在を、無根拠に維持することになります。
2013-06-02 11:44:07@saito_ke_ta 革命概念にも大きく二種類あります。グラムシ風にいえば、所謂「大きな物語」としての機動戦的革命と、「大きな物語」崩壊後の陣地戦的革命です。貴氏のいわれる革命は、後者の範疇と思いますが、その「生活の外」は、資本主義批判を含まない限り革命ではないでしょう。
2013-06-02 11:51:14教養や理念を大切にするために生きるのが革命家なら、それと日常生活の共存は可能であると思います。そして私が支持するのは日常生活の内側にある改革が外側の革命へと、インターネットによるパブリックとプライベートの混同により接続する、という無根拠な空想です。 @Chisaka_Kyoji
2013-06-02 11:51:21@saito_ke_ta まったく教義とは関係なく、そもそも革命なるものは、本当にあるのかということです。つまり革命とは、どういうことを言うのかということです。
2013-06-02 11:52:49@saito_ke_ta 誰しも日常を生きているという意味では、日常との共存は可能ですが、その可能であることの内容です。改革は革命には接続しません。革命は、改革を切断するところの、つまり生に対する死の跳躍が不可欠だと思います。
2013-06-02 11:57:49革命は、改革を含む、現実や日常と切断することによってしかそのものとはならない。この日常や現実との切断が、資本主義批判であり、資本主義の存在論的な批判を含まないものは、いかにラデイカルな表情をしていようと革命ではなく、資本主義内の変革に終始することになる。
2013-06-02 12:02:22@saito_ke_ta 資本主義に対する批判は、「批評」(悪口、嫌悪)ではなくて、資本主義の存在に関するものでないと、その批判は、資本主義を構造的に前提としていることになります。現代は、誰もが改革者の時代ですが、革命家はいませんし、革命もまた隠れています。
2013-06-02 12:05:33ということは革命家は存在論的なものなので、種を絶滅させないよう、保護する必要があるということですか?そして保護する政策を国ないしはコミュニティが行うことによって、その国やコミュニティが革命という装置を存在論的に維持することができるということですか? @Chisaka_Kyoji
2013-06-02 12:08:39@saito_ke_ta 革命とは簡単にいえば、現実の外へでることでしょう。現実は具体的には資本主義的現実としてあるわけですから、資本主義の外(それがどのようなものかは分かりませんし、在るのかどうかも分かりませんが)へ出ることでしょう。
2013-06-02 12:09:28@saito_ke_ta 革命家が存在論的なのではありません。革命が存在論的なのです。分かりやすい喩えをすれば、革命は人間には、悲劇的な災い(生を切断するという意味で)をもたらす、事件や災害のようなものかもしれません。
2013-06-02 12:13:54@saito_ke_ta イメージではないです。日常的には人間には肯定出来ない、悲劇や悲惨なことをもたらす事態を、普遍的に肯定する思想を理論として持つ必要があります。
2013-06-02 12:20:27そうなってくると、どこかの山奥で生きているらしいヒッピー集団、というイメージこそが、革命という話になってくるので、オカルトや都市伝説と革命みたいなものが、どんどん接近していくような感じがある。
2013-06-02 12:21:34@saito_ke_ta 教養は含みますが、教養ではないでしょう。教養はあくまでも現状の肯定ですから。その意味では革命は、教養の否定であり破壊でしょう。
2013-06-02 12:26:09渋家のけーた(概念)氏と、話をしていて、私の革命概念が、近代最大の反動とされるジョセフ・ド・メーストルの思想との近さの内容が、少し自分でも再確認出来たw
2013-06-02 12:29:30「関係性の逆転が革命の本質である」って昔の人がいってました。お金(で動く構造)を打倒しようとするよりも、お金がなくても生きていけるインフラを作って暮らす方が、資本にとってよっぽど革命的と思います。斎藤さんの仰るとおり、「革命はもう起こっている」のかも。 @saito_ke_ta
2013-06-02 12:29:59@saito_ke_ta 教養は大いに持つべきだと思いますが、教養というものは、否定すべきでしょう。なぜなら、教養は、官僚化した知でもあるからです。
2013-06-02 12:31:46@saito_ke_ta そんなイメージを持つ必要はないと思います。ただ、存在論的には、教養や文化には根拠がないという意味での否定性をもつ必要はあります。イメージと存在論は、象徴と物神のような違いがあるでしょう。
2013-06-02 12:35:40@saito_ke_ta 私は、1970年代に20代前半で、メーストル評価の一文を、当時の「図書新聞」紙に書いた経歴がありますw 反革命を肯定出来ない革命などは、革命でも何でもありません(それこそ、それが、革命とは似て非なる改革ですw)。
2013-06-02 12:40:13@saito_ke_ta 教養は基本的に「知識」であり、「知恵」ではないと思います。知恵は、教養に対しては、場合によっては、占いやスピリチュアル、オカルトみたいなものになりかねません。
2013-06-02 12:43:18