徳川慶喜と会津藩主松平容保に置き去りにされた人々はどうしたか

佐藤さんが会津のT.K.さんに教わってた内容が興味深かったので、あとで読もうとまとめておきました。メモ。
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Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k こんにちは。鳥羽伏見の後、慶喜と藩主が海路で江戸に向かい、置き去りにされた藩兵や家来はどうやって京を離れたのでしょうか?『八重の桜』ではいつの間にか皆、江戸に集結し、会津に帰郷したようですが。おそらく陸路でしょうが、江戸までの道中、無事だったのか気になります

2013-06-06 18:23:46
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k 京都守護職のために出兵した兵のどのくらいの割合が無事帰郷できたのか、についても、もしご存知でしたら教えていただけますか?

2013-06-06 18:24:44
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

@yoshisatose ちょっと調べてみます。しばらくお待ち下さい。

2013-06-06 19:13:55
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k お手間をかけて申し訳ないです。ご存知の範囲、もしくは簡単に分かる範囲で結構ですよ。

2013-06-06 19:14:35
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

@yoshisatose 大正5年平石弁蔵著「会津戊辰戦争」によれば、「会桑幕の諸隊大阪に入るや慶喜等の東帰を聞き愕然たらざるものなく、士気頓に阻喪し、未だ敵なきに空しく天下の堅城要地を棄てて随意に紀伊又は伊賀路を経て東に去るあり、或は外国船又は和船に依りて東帰するものあり。」

2013-06-06 19:48:09
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@yoshisatose とりあえず、手近にあった分でした。夕飯なので、あとで、他あたって見ます。

2013-06-06 19:50:21
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k なるほど、あまりまとまりなく、陸路や海路で東に逃れていったという感じですね。どうもありがとうございます。

2013-06-06 19:51:41
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

@yoshisatose 相田泰三「松平容保公伝」(昭和52年)に拠れば、「会津の敗兵は1月8日に大阪を発して紀州に入った。紀州藩では人を国境に出して和歌山に入るを拒み、加太の浦に行かしめた。時に我が兵、金穀欠乏し、乃ち之を紀藩の謀った。ついに陸路大島に至り、その地より海に航して

2013-06-06 22:02:06
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@yoshisatose 三州吉田に至るまでの旅費の負担を求め、その許諾を得た。また、和歌の浦に於て永井尚志、小野広胖によって旧幕の金五千両を借りた。21日より船に航して江戸に帰る者、数日に及んだ。或は大阪より航し、或は紀州藩の保護により大島より吉田に至り、或は由良港より

2013-06-06 22:07:27
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@yoshisatose 旧幕雇人の米国船により直航して、伊豆の綱代に上陸する者などありて、遅早は一様ではなかった。」とあり、大筋では前掲書と同じです。

2013-06-06 22:10:17
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k ありがとうございます。敗兵の旅は簡単なものではなかっただろうと察していましたが、やはり、薩長側に恭順の意を示したい他藩による妨害など、実際にあったのですね。詳しく分かりました。それにしても、そういう文献が身近にあるなんて、さすが「会津人」!

2013-06-06 22:24:50
Jem @Jem0211

@aizujin_k @yoshisatose 会津落城後、徒歩で傷病兵を伴って猪苗代湖畔を延々と歩き(たぶんこの中に斎藤一もいたんだと思ってます)、斗南へとばされ、戸がなく入口は莚という掘立小屋で、死んだ犬を食べて冬をしのぎ…

2013-06-06 22:30:53
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@yoshisatose都の黒谷光明寺に261柱、その他伏見町悟真寺に53名、その他7箇所の埋葬場所が確認されているようですが、戊辰戦争全体で3014人、内蛤御門の変32人が別記されているだけで、後は一緒なので鳥羽伏見までの分を正確には確認できませんでした。

2013-06-06 22:43:56
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k 「戊辰戦争全体で3014人」は幕府軍全体ということですよね? 会津だけにしては数字が大きすぎるでしょうから。

2013-06-06 22:45:26
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@yoshisatose 今のは「戊辰殉難追悼録」(会津弔義会、昭和53年)によりました。実は大事な参考書、『会津戊辰戦史』山川健次郎監修を、震災の後どの本棚に戻したか、迷子にしてしまって・・・要領を得ません。お恥ずかしい。

2013-06-06 22:49:03
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

@yoshisatose グーグル先生だと、会津藩2557人(女性194人を含む)説が出てきますね。弔霊義会のほうは、殉難者ということで自刃婦女子も含む人数になっているようです。

2013-06-06 23:01:18
Yoshihiro Sato @yoshisatose

@aizujin_k ごめんなさい。私の勘違い。 「戊辰戦争全体で3014人」というのは、会津戦争も含めてなわけですね。鳥羽伏見戦争での犠牲者かと思っていたので、多すぎると感じていました。

2013-06-06 23:02:56
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@yoshisatose いえいえ、戊辰関連は熱心な郷土史家が多く研究が細部にわたり詳しすぎて、全体を見渡して纏めたものが意外と少ないんです。小説風になっちゃったりして。私はあんまり戊辰史に興味が無かったので、要領を得ず済みませんでした。

2013-06-06 23:08:26
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

@Jem0211 さんのご先祖は斗南まで行かれたのでしたか。大変な極ご苦労を・・・@yoshisatose

2013-06-06 23:45:19

勝てば官軍

T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

『勝てば官軍』と歌われたように会津若松の戦闘では、西軍の略奪・暴行は目にあまるものがあり、会津人の脳裡に薩長不信の非難を長く植え付けた。農商工を問わず、家財の分捕りは公然と行なわれ、若松城下のいたるところに『薩州分捕り』・『長州分捕り』と記した大表札が立てられていた。(続く

2013-06-10 22:44:35
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

続き)しかも、分捕りは各藩競争で行なわれ、若松愛宕町の呉服店森田七郎右衛門の土蔵は薩摩と肥前で分捕り争いとなり、不利になった薩摩の兵士は土蔵に焼玉を投げ、破壊する騒ぎもあった。これらの分捕り品はどんどん売り飛ばされた。会津藩士小川渉が天守閣の上に立って望遠鏡で滝沢峠を(続く

2013-06-10 22:49:20
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

続き)みると、荷物を積んだ馬が続々と上がってゆく。あとで聞くと皺川に骨董商が数人も来ており、略奪品を買い取っていたという。老若男女の殺害、婦女子への乱暴も平然と行なわれ、西軍の陣所では、藩士や農商民の妻女を捕え、妾とし、会津軍兵士を憤慨させた。(続く

2013-06-10 22:53:31
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

続き)このため、落城後、ひそかに謹慎所を抜け出し、無頼の西軍兵士を襲撃する事件も発生した。(会津若松市史、昭和41年版第五巻より)

2013-06-10 22:56:07
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

一般には、板垣退助やウィリアム・ウィリスの言葉から、会津の民衆は官軍に協力的であったとか、会津軍が手におえない無頼の集団と化していたとか言う面が強調され教えられてきました。確かに民衆の動きは一枚岩ではなく西軍に組するものもありました。

2013-06-10 23:15:40