こうせんさん過去ツイート一括り

言葉があるから両極が存在するのかにゃ。。。
0
半田広宣 @kohsen

「見ること」。それは実は容易ではない。「見る」という言葉に含まれている概念自体が実は「見ること」を疎外している。「見る」という言葉は見るものと見られるものの分離を最初から想定している。このとき見るものは見られるものの手前に置かれているが、この配置の設定時点でモノは消え去っている。

2012-02-29 15:57:35
半田広宣 @kohsen

「見ること」とは本来、モノの即自なのだ。モノを対自と見ているのであれば、それは他者が見ているモノを見ているのであり、それは空間的には本来のモノの裏面(反転したモノ)になっている。こうした反転力は言葉が持つ第一の魔力である。

2012-02-29 16:07:48
半田広宣 @kohsen

言葉で世界を認識している以上、知覚は常に無意識の中に抑圧されている。言葉の暑苦しい皮膜をすべてはぎ取ったときに、モノは初めて自らの姿を露にする。悟性と感性の対立はすべてこうした空間の方向性を巡る対立として捉えるのがベストだ。言語で考えてる間は、その差異は判明にはならない。

2012-02-29 16:13:58
半田広宣 @kohsen

知覚と言語における空間の相互反転性、並びに自己と他者における空間の相互反転性を考え合わせると、光のスピンの固有値±1が示すものが一つの共通の対象に対する自他の知覚空間で、固有値0が示すものが言語空間のように思える。固有値±1は二つの差異の場、固有値0は同一性の場とも言える。

2012-02-29 17:12:45
半田広宣 @kohsen

つまり、差異が二方向に直立していない状態では言葉の同一性を巡って自他の闘争が繰り広げられるという構図だ。光の進行方向を奥行きではなく幅の中に見て秒速30万km某と言っている間はわれわれはこの闘争から逃れることはできない。

2012-02-29 17:25:29
半田広宣 @kohsen

ドゥルーズの奥行きに関する記述を読む限り、やはり第一の時間の総合が悟性的、第二の時間の総合が感性的と解釈せざるをえないかも。「一方では、延長の繰り広げは習慣のあるいは現在の第一の時間の総合に基づき、他方では、深さの巻き込み[潜在]は《記憶》のおよび過去の第二の総合に基づく、

2012-03-01 21:36:31
半田広宣 @kohsen

ということである。そればかりでない。深さの中に、普遍的な「脱根拠化」を告げる第三の総合が接近し沸き立つのを予感しなければならない。」『差異と反復・下p.165』

2012-03-01 21:38:50
半田広宣 @kohsen

延長は幅の知覚からもたらされるが、奥行き自体は知覚されざるものである。そこには時間の収縮[記憶]が息づいており、潜在的なものへの入射口となっている。

2012-03-01 21:43:42
半田広宣 @kohsen

奥行き(深さ)が幅と同一視されてしまうのは悟性の働き(言葉による概念の使用)によるものであって、感性(直観)ではない。奥行きは常にその中に持続を維持しているのだ。

2012-03-01 21:47:09
半田広宣 @kohsen

奥行きは前後の次元だが、このダイレクトな縮約はu、dクォークに直結している。その意味でもドゥルーズが「深さの中に第三の総合が接近し沸き立つのを予感しなければならない」と言っているのが面白い。大統一理論SU(5)に見られるようにSU(2)は始まりと終わりで接合しているのだ。

2012-03-01 21:53:20
半田広宣 @kohsen

このことを裏付けするかのように、ドゥルーズはシェリングの次のような言葉を挙げている。

2012-03-01 21:56:34
半田広宣 @kohsen

——深さは、外側から縦と横につけ加えられるのではなく、縦と横を創造する抗争という崇高な原理として、埋もれたままになっている——と。

2012-03-01 21:58:29
半田広宣 @kohsen

始まりの奥行きと、終わりの奥行き。この二つの奥行きの差異を巡って、複素空間は五枚の複素平面を使ってわれわれの無意識を構造化している。それは自己と他者の間を結ぶ結び目でもあり、また生者と死者を邂逅させるための回廊でもある。

2012-03-01 22:06:14