ゼーガペインとマトリックスの相違点・ゼーガペインにおける「高校生」という設定の意義

Twitter上でゼーガペインのファンが自分なりのゼーガペインの考察を投稿していたのを見て、真似てやってみた初めての考察。本考察では、ゼーガペインを見た際に「設定が一緒」とよく引き合いに出されるマトリックスとゼーガペインは実は設定が似ているだけで物語の指向性は全く違うということを最初に説明し、後半ではゼーガペインの主な登場人物たちが「高校生」であることが物語の指向性とシンクロしているという自分なりの考えを説明しています。
19
SHIMIZU Taku @takuan_osho

ここからゼーガペインの考察。ネタバレ満載でポストする気なので見たくない人は心の眼を閉じてください。 #zega

2010-01-10 21:51:47
SHIMIZU Taku @takuan_osho

まず初めに、ゼーガペインファンの間で布教の合言葉になっている「6話まで見ろ!」というスローガンがありますが、実際に6話まで見て一度は誰もがこう思うのではないでしょうか? 「これってマトリックスと一緒じゃないか」と。しかし、こう思った方に異議を唱えたいのが今回の目的です #zega

2010-01-10 21:55:59
SHIMIZU Taku @takuan_osho

確かにゼーガペインはマトリックスと似た世界観を有しているためそう思われるのは仕方が無いです。実際にゼーガペインを「最後まで」見た方はマトリックスとの違いを言葉にできなくても感じることはできると思いますが、さらっと見たぐらいの人では違いを感じるまではいかないと思います。 #zega

2010-01-10 22:00:27
SHIMIZU Taku @takuan_osho

特にwikipediaのような所で設定だけを知った場合は、単に「マトリックスのパクリ」と思われるのは避けられないでしょう。しかし、私が大学のレポート用に自分なりにマトリックスを見て理解したところでは、ゼーガペインとマトリックスは物語の指向する所が180度違うのです。 #zega

2010-01-10 22:04:35
SHIMIZU Taku @takuan_osho

一言で双方の物語の指向する所を表現すると、マトリックスは「(機械からの)独立」、ゼーガペインは「(自己の)存在の確認」です。マトリックスは「機械」という「自身の外の存在を問題視」しているのに対し、ゼーガペインはまず「自分の存在を問題視」するという方向に向かっています。 #zega

2010-01-10 22:10:17
SHIMIZU Taku @takuan_osho

つまりマトリックスは「外に向いた物語」、ゼーガペインは「内に向いた物語」と言えます。この物語の指向する所を似たようなガジェット(胡蝶の夢)でくるんでいるため、一見しただけでは二つの作品は似たように見えるのです。しかし、この物語の指向性の違いが決定的な違いなんです。 #zega

2010-01-10 22:12:34
SHIMIZU Taku @takuan_osho

マトリックスの「機械から自分たちを解放する」という話の流れは良くも悪くも「(アメリカ的な)二項対立」の枠組みです。それに対し、ゼーガの「自身の存在を問題視」せざるを得ない話というのは「(老荘思想的なものを含んだ)陰陽の考え方」の枠組みです。 #zega

2010-01-10 22:19:38
SHIMIZU Taku @takuan_osho

実際ゼーガには胡蝶の夢や哲学家の名前が劇中で少し出るなど哲学思想を踏まえたかのような作りが伺えますが、これはおそらく制作者の意図通りだと私は思います。こういった思想的側面を上手くストーリーの展開に組み込んだ設定が「幻体」という設定なのではないかと考えています。 #zega

2010-01-10 22:23:46
SHIMIZU Taku @takuan_osho

「幻体」という設定以外にもこの「自身の存在を問題視」する主人公たちの姿を浮き彫りにする装置があります。それが主人公たちの「高校生」という設定です。中学生でも大学生でもない「高校生」の主人公というのが実は物語のテーマを支えているというふうに私は考えています。 #zega

2010-01-10 22:29:20
SHIMIZU Taku @takuan_osho

ゼーガペインは物語の流れ的に「生きているってどういう事だ? こんな世界に意味はあるのか?」という思いにさらされるわけですが、こういったアイデンティティの確認は思春期の通過儀礼として過ごさないといけないものだから、「高校生」という思春期の時代が割り当てられます。 #zega

2010-01-10 22:32:35
SHIMIZU Taku @takuan_osho

では、何故中学生でも大学生でもなく、「高校生」か? それは「現実」と「夢」のバランスがどちらにも偏りすぎていないのが「高校生」だからです。 #zega

2010-01-10 22:33:46
SHIMIZU Taku @takuan_osho

大学生の就職活動の堅実さを考えるとよくわかるように、主人公たちを大学生以上にしてしまうと「俺は別に幻体でも楽しければいいしね!」という現実主義のキャラが出てきてもおかしくないわけです。逆に中学生以下だと将来の具体像もよく分からず、夢見がちな世代なのでダメなのです。 #zega

2010-01-10 22:36:20
SHIMIZU Taku @takuan_osho

「高校生」だと、将来の(大きな)夢を描いていても不思議ではない(ex.カミナギの映画監督志望)という面もありつつ、かと言って夢ばかりを見ているわけではなく現実も多少は見えてきているという、「夢」と「現実」のバランスがある意味で不安定な様相を呈しているわけです。 #zega

2010-01-10 22:39:29
SHIMIZU Taku @takuan_osho

だからこそ、「幻体」となってしまう主人公たちには「高校生」という設定がふさわしいのです。「幻体」になってしまったことで「生」と「死」があやふやな状態になっている様子と、「夢」と「現実」が不安定なバランスでいる「高校生」という構図が上手くシンクロしていくのです。 #zega

2010-01-10 22:41:29
SHIMIZU Taku @takuan_osho

もうちょっと考察書きたいけれどまた時間の都合で中断せざるを得ない。というか、脳内で描いていたことと論理展開が違ってきたので、「『前キョウ』対『現キョウ』の行動・『キョウたち幻体』対『アビスたち復元者』が描く物語のテーマの二層性」はまた別の機会にポストすることにします。 #zega

2010-01-10 22:46:44