西洋医学ことはじめ(東大と医学解剖と狩野亨吉の脳の重さと)

漱石や亨吉の脳の解剖は、医学解剖の流れの上でのことなのか?についてのあれこれ。 【参考】 石黒忠悳『懐旧九十年』(大空社) 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(中公文庫) 東京大学創立百二十周年記念東京大学展『学問のアルケオロジー』(東京大学出版) 続きを読む
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ryugo hayano @hayano

(ウプサラ大学の有名なAnatomical theatre.あの台の上にxxを乗せて,皆で覗きこんだのですね) @hayano: Jun 10, 解剖劇場之圖 → http://t.co/fd6K2wGAyt

2013-06-10 18:36:25
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@hayano そういえば狩野亨吉先生の逝去の際に東大で脳の重さをはかったりしてますよね。八田三喜『狩野先生』には、儀式の様に書かれてますが、戦時中くらいまで東大ではそういうことがあったのでしょうか?

2013-06-10 18:47:05
ryugo hayano @hayano

私は不案内.今 http://t.co/mfpTbGkJIH 読んでます.@murapyon71: そういえば狩野亨吉先生の逝去の際に東大で脳の重さをはかったりしてますよね。八田三喜『狩野先生』には、儀式の様に書かれてますが、…

2013-06-10 18:53:18
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@hayano 明治2年医学校で行われたみき女の解剖に始り、翌年「大学東校で刑屍の解剖が司法当局から許可」とあります。漱石や亨吉の解剖がこの流れの上なのか、ちょっとこの近辺の著書をあたってみます。 東京大学創立百二十周年記念東京大学展 http://t.co/JUZ6hyEJMh

2013-06-10 20:21:11
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

八田三喜『狩野先生』。「東京大学医学部病理教室へ、脳の解剖のお伴をした…高橋学部長、内村教授立会の下に厳粛に執行せられた。…重量は一、三三〇瓦、重量は僅に重いがしわがとても多いとの事実に慰められ」とある。これをみると一般の献体とは違う様だけれどもよく分らない。

2013-06-10 21:24:00
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

昔の偉人さんって、死んじゃうと、けっこう脳みそをいじられてるよね。夏目漱石とか狩野亨吉とかエジソンとか。ひとむかし前の解剖の方の好事なのだろうか?毒婦の代表お伝なんかは陰部をアルコール浸けにされて東大が保存してたなんて話しもあるし…。

2013-06-10 18:54:22

【西洋医学ことはじめ、長崎伝習】

むらやまこういち💉💉 @murapyon71

西洋式の陸海軍を整えるのに、オランダ政府に海軍講師を要請。航海・測量・砲術・衛生などの専門士官が来日。幕府は蘭学に通じた有為の士をあてて、これらの習得に就かせた。これを「長崎伝習」と呼んだとある。

2013-06-13 18:49:52
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

その内の衛生専門士官が二等軍医ドクトル・ポンペ・ファン・メールデルホールト・イ・エ・ロースだとある。日本の書物では「朋百(ポンペ)」と出てくるようです。幕府奥医師の息子、松本良順が朋百について学び、その集大成(講義の筆記と講義に使われた原書の翻訳)が『朋百医学七科書』とある。

2013-06-13 18:59:58
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

医学所の前身は種痘所。在江戸の西洋医家の篤士者が神田お玉ケ池に設けたのが最初とあり、ウィキによると半年で消失、神田和泉町に移るとある。発達して医学講習所となり、官に寄附して西洋医学所、のち医学所。これが東京帝国大学医学部の前身とある。

2013-06-13 20:14:54
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

お玉ケ池種痘所は、安政五年十一月十五日類焼、翌年旧藤堂和泉守屋敷北仮小屋にて種痘事業の継続、万延元年十月十四日官立種痘所、文久元年十月二十五日西洋医学所、文久三年二月二十五日医学所と改称。『明治二年東京全図』藤堂邸南に医学校がみえる。 http://t.co/3ql2o9sCou

2013-06-15 17:01:45
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むらやまこういち💉💉 @murapyon71

お玉ケ池というと、家康入府くらいまでさかのぼらないとそれっぽい絵が出てこない。 http://t.co/quhYmatvhB

2013-06-15 17:29:36
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むらやまこういち💉💉 @murapyon71

お玉ケ池付近。川路聖謨邸がどこになるのかよくわかりませんが、玉池稲荷の横にちょこっとお玉ケ池の名称が見える。たぶんこのあたりに種痘所があったのでしょうね。 http://t.co/p8qF7qBQAH

2013-06-15 17:51:05
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【大病院の成り立ち、及び大学東校へ】

むらやまこういち💉💉 @murapyon71

将軍慶喜が江戸に逃げ帰り、幕府の政事は打切りの状態に、医学所も閉鎖に追い込まれ、関係者も後図を策し解散とある。石黒公は北越戦争が終わるまで郷里に潜伏していたとある。明治二年に東京に帰ると藤堂邸が大病院という官軍病院になり、医学所が従属扱いになっていたそう。

2013-06-16 18:48:24
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

明治の『東京全図』に、医学校のよこに何とか病院とあるのがこれにあたるのだろうね。

2013-06-16 18:49:43
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

東大病院の成り立ちをみると、幕末に北越・会津と官軍に従い、治療を行ったウリースに始まる。ウリースは負傷者を横浜に集め治療。東大病院のHPをみるとこれを「横浜軍陣病院」と称している。のち東京下谷和泉橋の藤堂和泉守邸移り大病院となる。 http://t.co/W7hPEqirRA

2013-06-21 23:54:13
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

当初医学校は大病院の従属的な扱いであったが、相良・岩佐らの意向で医学校が主、大病院は従ということになる。これは東京大学医学部付属病院という名にもあらわれている。

2013-06-22 00:01:02
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

文武の官衙は、旧幕府の聖堂で当時お茶の水の元師範学校のところにあり大学と称した。医学所は、学校が大病院を隷属せしめるべきという、京から下った相良・岩佐両御用掛の見解をもとに、医学専門の大学東校と称したとある。大学から見て東に医学所があったので、大学東校という名称になったのだとか。

2013-06-16 19:13:23
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

『學校圖』をみると、藩校の規模に驚かされる。時間があれば史跡を散策したいものだ。幕末の学問の状況(長崎との交流など)、その他もろもろ事実確認をしていくと、明治維新の真の必要性というものにちょっと首を傾げたり。付図は会津日新館→ http://t.co/pOqhlLCZFP

2013-06-16 19:51:04

【本郷移転の経緯について】

ryugo hayano @hayano

「赤門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門であった。明治36年現在の位置へ移されたが、元は15メートルほどキャンパス寄りに位置していた。明治30年頃から始まる医科大学の建設のためであったという。」 - http://t.co/vmv07kcEb4

2013-07-08 22:41:42
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@hayano そんなことがあったんですね。たしかに東京時代MAPをみると、加賀中納言殿の敷地からはみ出してるような感じになってますね。角度も今の道に合わせて変わってるのかも知れませんね。御守殿門のところは南北に垂直になってるように見えます。

2013-07-08 22:42:31
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

東大の赤門というと、鳶魚翁が、徳川の溶姫が加賀藩主に嫁入りした時に建造されたもので、俗に御守殿門といわれ、前面の本郷六丁目全てと五丁目の半分の西側全て数百戸を取り払われ、その時期の川柳に「御守殿が出来て町家も片はづし」とうたわれた等の話しを伝えておられる。

2013-07-08 23:22:57
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

へー、うまいこと言ったものですねえ。@murapyon71 俗に御守殿門といわれ、前面の本郷六丁目全てと五丁目の半分の西側全て数百戸を取り払われ、その時期の川柳に「御守殿が出来て町家も片はづし」とうたわれた

2013-07-08 23:44:25