のぶお伝説

内大臣・織田信雄公の素顔に迫るっ!!!
3

6月7日

すべてはここから始まった・・・

さき @masakishibata

安土城が完成した日におはようございます。日本史上最大の一軒家。山ひとつを住居にするという桁外れのスケールで、お墓参りが面倒なのか敷地内に寺を建てたのが特徴。庭には秘書や使用人の住居、天皇のゲストハウスが建ち並ぶ。最上階は赤黒金で彩られ、オシャレな吹き抜けは建築基準法違反

2013-06-07 08:58:05
さき @masakishibata

安土城は本能寺の変の後に謎の出火で焼失します。この犯人を織田信雄と断定して「のぶお氏ね」と責める人がいますが残っていても豊臣秀吉か徳川家康が積極的に取り壊すと思うので現代に残ることはないと思いますから何が言いたいかというと信雄を責めないで

2013-06-07 09:15:09

信忠と信雄。

さき @masakishibata

能狂言にハマりすぎたことを咎められて道具を取り上げられた織田信忠と、無断で軍を動かして大敗したことを叱責されて親子の縁を切られかけた織田信雄。やらかしたことは信雄のほうが深刻だが並べてみると信忠のスケールが小さく見えてしまう不思議。

2013-06-07 12:30:59
さき @masakishibata

あれだな。親の期待を一身に背負っていたが中学になって音楽に目覚めてバンドを始めたら成績ガタ落ちになってギターを取り上げられた長男と、親の金で買った外車を乗り回して大事故やらかして尻拭いさせた次男。

2013-06-07 12:35:04
さき @masakishibata

でもね、あれだよ。織田信雄公は正二位・内大臣の官位官職を賜り、伊勢国司になったスーパーエリートよ。もう武家の括りを超越して公家の中に入っても上から数えたほうが早いくらいの偉い人なのよ。

2013-06-07 12:37:19
さき @masakishibata

【三介殿の本気は】織田信雄公を讃えまくるスレ【こんなもんじゃねぇ】

2013-06-07 12:44:47

6月10日

さき @masakishibata

というわけで、織田信雄の命日におはようございます。織田信長の次男。始めは北畠家の養子となり10代目当主となるが、後に織田姓に戻る。2度の改易を経て、大坂の役の後に大和宇陀5万石を与えられる。子孫は出羽天童藩主丹波柏原藩主として明治まで存続した。

2013-06-10 08:29:28
さき @masakishibata

最近の信雄ブームがヤバい

2013-06-10 08:30:08

織田信雄の評価に物申す。(擁護はしていない)

さき @masakishibata

織田信雄の評価って難しいんよ、ホンマ。畿内での一連の戦いで有力な一門が次々に戦死して更に前当主と現当主が謀反で同時に死ぬなんて状況になった織田家でさ、次を担うのは信雄なのよ。で、信雄は『織田家当主』として当然の行動をした。つまり、当主の座を狙う三男・信孝の排除

2013-06-10 09:06:24
さき @masakishibata

それを果たした後、次は織田家の傀儡化を目論む羽柴秀吉と対決した。多少恣意的な解釈はしたが、信雄の視点で見ると何ら不自然なことはないと思うんよ。要はそこで「負けたから」信雄の行動が間違いだと評価される。じゃあ、逆に秀吉に取り込まれていたらさ、それはそれで違う種類の「負け」だろ。

2013-06-10 09:10:24
さき @masakishibata

何が言いたいかというと、「時代の流れを読まずに秀吉と敵対した信雄ダッセー」じゃないんよ。そういうこと言うヤツは「信長の息子なのに秀吉に下った信雄ダッセー」と言うでしょ?批判するなら批判する場所を間違うなよ。

2013-06-10 09:14:04
さき @masakishibata

じゃあ、信雄にとっての最善は何だったかと言えば、秀信の後見人の地位を確立させるしかなかったのかなと思う。信孝は当て馬にされたわけで、そこで後継者候補に上がらなかったのは逆にチャンスだったと思う。

2013-06-10 09:19:20
さき @masakishibata

批判すべきこととすれば、小牧長久手で単独講和して徳川家康のメンツを潰したことか。長引けば戦術的にも徳川方が負けたと思うが、信雄は自分から一抜けて立場を失ってしまった。秀吉の対抗馬が信雄から家康に変わった瞬間だと思う。

2013-06-10 09:23:59

信雄と信孝(と家康と秀吉)。

さき @masakishibata

清洲会議後の信雄と信孝について。清洲会議で信孝は秀信の後見人の役目と美濃を手に入れた。信雄は尾張・伊勢・伊賀を手に入れ、100万石に乗る大大名に。この時点で『実』を取ったのが信雄で、『名』を取ったのが信孝ということになるか。

2013-06-10 12:09:33
さき @masakishibata

で、賤ヶ岳の戦いで信孝を降伏→切腹させた信雄は晴れて秀信の後見人として安土城に入り、『名実』を手に入れた。しかし、すぐに秀吉によって退去させられている。この理由が知りたい。

2013-06-10 12:11:57
さき @masakishibata

その後すぐに信雄と家康は同盟を結んでいるが、これが新しく締結されたものなのか信長時代の同盟関係の継承なのか。後者であるなら、家康は信雄を織田家の後継と認識していたことになる。

2013-06-10 12:13:41
さき @masakishibata

で、あれか。ここで信雄の失態が表面化するのか。秀吉に内通した疑いのある重臣を殺害し、それをトリガーにそれら重臣の一族が造反。結果として、伊賀と伊勢を丸々手放すことになる。要は講和せざるを得ない状況に追い込まれていたのか。

2013-06-10 12:16:03
さき @masakishibata

内通を疑われた津川義冬岡田重孝浅井長時は皆、信長の時代から仕えた譜代といえる存在。そんな人物を疑うほど秀吉との仲は険悪になっていた。そのきっかけを安土城退去にあると推測する。

2013-06-10 12:18:58

「信雄」の読み方について。