茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第972回「大学を覆う、皮肉のスタンス」
- toshihiro36
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だひ(1)新幹線の中で、iPhoneを使って、もう10回目か20回目の『三四郎』の読書に入った。古典というものは、何回読んでも新しい発見がある。それで、読んでいるうちに、何年か前、講演会でのある出来事が思い出されてきた。
2013-06-16 07:12:29だひ(2)その頃、私はさかんにギャップ・イヤーのことを言っていて、高校から大学、大学から就職と切れ目なく続いて、履歴書に「空白」があることを嫌う日本の風潮はおかしい、などと述べていた。そしたら、質疑応答である方が、「茂木さん、日本には、4年間のギャップ・イヤーがあるでしょ」と。
2013-06-16 07:14:12だひ(3)みんなどっと笑った。つまり、大学なんて遊んでいるようなものだから、それが4年間のギャップ・イヤーなのだと。このような「皮肉のスタンス」は蔓延していて、企業の方も、採用の際「大学で学んだこと」にはあまり期待しないし、参照しない傾向があると聞く。
2013-06-16 07:15:21だひ(4)なぜそんなことを思い出したかと言えば、『三四郎』の中に、すでに大学の授業に対する皮肉のスタンスが描かれているからだ。三四郎の親友となる与次郎が、さいしょから教授たちや授業をバカにしている。三四郎も、はじめのうちは真面目に授業に出ていたが、やがてさぼり始める。
2013-06-16 07:16:47だひ(5)『三四郎』の中で、深い思想を語っているのは、「日本よりもアタマの中の方がひろいでしょう」と語る広田先生だけだが、その広田先生は大学とは関係なく在野の人である。東京帝大でのキャリアを捨て当時のベンチャーだった朝日新聞に入った漱石の大学に対する視線は厳しい。
2013-06-16 07:18:13だひ(6)『三四郎』が朝日新聞に連載されたのは明治41年のことで、大学設置後31年経っているが、その時すでに、今日見られるような大学教育に対する「皮肉のスタンス」が蔓延していたことになる。これはなぜか? 大学には実質的な学びの場と、ある社会的ポジションを得る方便という側面があり、
2013-06-16 07:20:19だひ(7)明治41年にしてすでに、社会的ポジションを得る方便としての大学の意味合いが強かった、ということなのだろう。これは世界のどこの国でも、どの文化圏でもある程度存在する傾向ではあるが、日本の場合、就活で授業を休む、みたいな現象を見ればわかるように、病的次元に達している。
2013-06-16 07:21:45だひ(8)本来、学びは実質において喜びなのであり、社会的ポジションを得る方便などではない。ところが、中学受験の子どもたちまでもが、将来就職するのに有利だからと親たちに聞かされて塾に通っている。結局、明治以降の日本の近代のあり方(開発のための装置)に淵源があるのだろう。
2013-06-16 07:23:13だひ(9)私自身は、学ぶことが社会的ポジションを得るための方便などと考えたことは一度もないが、ツイッターの反応などを見ていると未だにそのように考える人がいる(というより多い)ようだ。大学を覆う、皮肉のスタンス。『三四郎』の頃にすでにそうだったんだから、病根は深い。
2013-06-16 07:24:44