- masakishibata
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5月21日
動機みたいなもの。
簡単な経緯は4月15日の宗全の命日に書いていたが、畠山持国の家督継承問題や文正の政変、御霊合戦あたりでの対立がどんなものだったかも調べてみたい。
2013-05-21 12:05:00対立の理由が???
応仁の乱に至るまでの山名宗全と細川勝元の絡みを時系列で書き出してみたのだが・・・結論を言えば、応仁の乱に将軍の後継者問題って関係なくない?
2013-05-21 20:46:31以下、延々と経過を呟きます。(スルー可)
1447年:山名宗全が養女(山名熙貴の娘)を細川勝元に嫁がせる。熙貴は嘉吉の乱で足利義教とともに殺害された人物で、二人の娘を宗全が引き取った経緯がある。
2013-05-21 21:01:531454年:宗全が嘉吉の乱鎮圧後の赤松氏の処遇を巡って将軍・足利義政と対立。宗全に対して討伐命令が下されるが、勝元の執り成しで中止される。
2013-05-21 21:02:171465年:勝元が伊予に攻め込む。伊予の河野通春は大内教弘に援軍を求め、これを撃退する。教弘は宗全の養女を妻にしている人物。
2013-05-21 21:05:441466年:足利義政が斯波義廉から斯波氏の家督を奪い、斯波義敏に与える事件が発生(文正の政変)。宗全と勝元は義廉を支持し、家督を奪還する。
2013-05-21 21:06:021467年:畠山氏の家督継承問題で御霊合戦が起こる。宗全は義就の、勝元は政長の支持を継続していたが、足利義政の調停でどちらも援助を中止する。
2013-05-21 21:07:111467年5月:勝元方の赤松政則が山名方の播磨に攻め込み、播磨を奪還。その後、宗全に近しい一色氏の領地である若狭・伊勢に勝元方が攻め込む。
2013-05-21 21:11:27考察みたいなもの。
経過だけを見ていくと対立の原因は勝元が作っているように見えるな。最初のきっかけは宗全にとっては一族を殺害された恨みのある赤松氏の再興を、勝元が積極的に推進したことか。
2013-05-21 21:13:54宗全にしてみれば養女の嫁ぎ先と戦闘したり養子に与えた子を廃嫡したりと、勝元の行動は神経を逆撫でするものばかりであるが。決定的なのは、むしろ宗全が畠山政長から管領を取り上げて自分に近い斯波義廉を管領にしたことじゃないのかな。
2013-05-21 21:17:56