佐藤賢一先生の蘭学館に関する議論に樋渡啓祐武雄市長が反論

電気通信大学で技術史を担当している科学史の専門家、佐藤賢一先生が武雄の蘭学館について発言したところ、樋渡啓祐武雄市長が反論を始めました。その顛末と周囲の反応のまとめです。
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発端:佐藤先生の「技術史」佐賀藩についての講義メモ

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

今日の「技術史」の講義は、前回話題にした田中久重が一時期招聘されていた、佐賀藩の近代化過程の話。特に、幕末の藩主・鍋島直正(1814 - 71)が強力に推進した藩政改革において成し遂げられた西洋技術の導入過程を説明する。

2013-06-19 06:46:28
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

佐賀藩は、他の大名よりも過重な負担を幕府から与えられていた。それは「長崎警備」で、隔年交代で長崎港一帯の警備をさせられた。この職務を全うすることが、後の直正による藩政改革の強い動機となっていたことがこれまでも指摘されてきた。

2013-06-19 06:49:53
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

直正が生まれる前のことだが、文化5年にイギリス船が長崎に侵入して乱暴を働くフェートン号事件が起きた。この時の警備担当は佐賀藩。警備怠慢を幕府に咎められて、藩主以下多くの人が処罰対象となった。藩全体にその雪辱を果たす雰囲気があったらしいことも、改革の背景として指摘されている。

2013-06-19 06:53:09
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

直正は1830年に第10代藩主となるが、実権は隠居の父親が掌握。ようやく1835年に、佐賀城二の丸が焼失したことを非常事態として前藩主派を一掃。ここから、直正親政による長い改革路線が始まる。ブレインを重用し、人材育成からその改革はスタート。

2013-06-19 06:58:08
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

若い頃から教育を受けた学者や、身内で信頼できるブレイン(例えば義兄の鍋島茂義)を直正は集め、城内ではなく藩主別荘などの邪魔の入らない場所で徹底的に政治構想について議論させたと言われている。その過程で実践されたのが人材育成のための過激な藩校改革。

2013-06-19 07:00:55
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

佐賀の藩校に藩士子弟を強制的に入学させ、徹底的に文武両道を学ばせ、成績を厳格につける。その成績に応じて卒業後の登用を保証するというもので、身分・格式を無視して下級藩士子弟にもその登用先を確保した。(上級藩士の反発は当然起きた。)この改革で生まれた官吏層が後に直正の改革を支える。

2013-06-19 07:04:58
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

藩校改革で生まれた新しい世代の官吏層を直正は地方に派遣して実務にあたらせる。その過程で強調されていくのが、今で言う「殖産興業」の推進。地場産業の後押しだが、例えば「有田焼」が藩の主力商品となっていくのもこの流れ。ともかく、藩財政は10万両以上の借金により逼迫していた。

2013-06-19 07:07:44
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

こんなにも債務を抱えている団体が現在も有ったとすると、正常な方法ではとても再建はできないだろう。幕末の改革に成功した大名たちは、ほとんどが借金棒引きを無理矢理承諾させるとか、元本返済期限を数百年後(!!)に先延ばしさせるなどしてその場を凌いだ。直正は「借金棒引き派」。。。

2013-06-19 07:11:44
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

人材を揃え、財政負担を軽くし(今では許されないモラルハザード案件)、いよいよ直正の軍制近代化路線が始まる。しかし金が無い。[これは私の推測だが]長崎警備を全うするための近代的装備を購入するには多額の資金が必要になるので、安上がりに自前で作るという路線を選択したのではないかと。。。

2013-06-19 07:18:21
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

軍備・軍制近代化においても、最初に実践されたのが人材の招聘、集中であった。佐賀県立図書館で見つけた資料の中に、佐賀出身の和算家がこの時期に呼び戻され、暦法計算をしていたことを確認したのだが、実はその周辺に集まった人たちが後に「精錬方」(佐賀の研究組織)メンバーとして活躍している。

2013-06-19 07:21:17
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

一時間でしゃべる内容なので途中をかなり端折ることになるが、佐賀の軍備改革は「自前で兵器を作る」という一点に集約。そのプロセスだが:技術者・蘭学者を集めろ!→蘭書を買って翻訳して理解しろ!→材料揃えて鉄を作るぞ!→ヨーロッパで型落ちの反射炉なら作れそうだ!→大砲作るぞ!という流れ。

2013-06-19 07:27:20
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

自分も実際に見た資料で話をすると、佐賀の和算家・金武良哲(今、佐賀県立図書館の隣にある金武医院のご先祖)などは、西洋算術にまで手を染めて、例えばヨーロッパの度量衡を日本の単位に換算するような地味な仕事をしている。でもこれは、あちらのマニュアルや設計書を読むためには絶対必要な知識。

2013-06-19 07:34:05
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

オランダの本や設計図などを理解しても、どうやって反射炉を作る?が次の課題。反射炉とは、現代的な製鉄炉が確立する前の1つ前の世代の標準形。溶かす金属素材と燃料を炉内で別々の場所に置くが、炉内を耐火煉瓦で覆って赤外線を反射させて溶かす構造。これは燃料の不純物が金属に入らない利点。

2013-06-19 07:38:52
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

佐賀藩の苦闘は続き、反射炉実現までに何度か事故もあったようである。肝腎の耐火煉瓦製造は、それこそ有田焼の職人に技法を説明して仕上げさせたと言われている。在来技術と外来技術を融合させながらの暗中模索状態。それで、何とか実現したのが安政年間。この炉では鉄砲だけではなく青銅砲も作った。

2013-06-19 07:41:44
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この反射炉が作られた場所は、現在、佐賀市内の小学校の校庭になっている。この一・二年、世界遺産の登録を目指して地元研究者達が所在場所を確定させるために地中探査作業などをして、遺構としてほぼ確定できている。(明治になってから完全にこの跡地は放棄されていたらしい。勿体ない話。。。)

2013-06-19 07:44:26
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

佐賀藩の軍備改革に傾けたエネルギーはさらに凄まじい。長崎警備の現地対策として、長崎湾内の四郎島に石垣を構築し、要塞化しようとした。(現在、島の地面は荒れ放題。)直正は参勤交代の帰りに、長崎に立ち寄ってオランダ船に乗艦して直に西洋の軍備を見ている。これでは部下も気合を入ざるを得ない

2013-06-19 07:51:50
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

幕末に幕府は欧米に使節を派遣するが、その時に佐賀藩も幕府に依頼して藩士を何名か随行させた。鍋島家の御当主に見せて頂いた資料が面白くて、藩士たちが持ち帰ったおみやげ。東南アジアの米粒、ヨーロッパの製鉄所で拾ってきた屑鉄とか。。。殖産興業のために必死で集めたんだろうなあという物ばかり

2013-06-19 07:56:40
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この佐賀藩の軍備改革の過程で招聘されたのが、前回話題にした田中久重。彼は蒸気機関車の模型を作って実際に走らせることに成功し、有明海に蒸汽船「凌風丸」を走らせるまで実用化。よく考えるとすごい話で、欧米技術者たちがノータッチの国で、本と設計図だけ見て蒸気機関を作り上げたことになる。

2013-06-19 08:03:26
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

他にも佐賀藩が手がけた物と言えば、写真術(川﨑道民が着手)、種痘の実施、しかもこれを領内に普及させたこと。さて、直正は戊辰戦争を経て明治初期まで存命。薩長土肥と揃えて言われることが多いが、佐賀はかなりギリギリまで佐幕派。とはいえ、佐賀の軍事力が東西の均衡を破ったことは確かだろう。

2013-06-19 08:08:12
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

もう一人、直正を語る上で忘れてはならないのは義兄の鍋島茂義(1800 - 1862)の存在。今、図書館運営が話題になっている佐賀武雄の領主彼が蘭学導入にかけた意気込みが、実は直正に多大な刺激を与えたと言われている。

2013-06-19 08:10:51
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

茂義(鍋島藩の家老クラス)と直正が協力したことで、佐賀藩の軍制改革はスムーズに進んだ面が大きい。幕末維新の時の活躍だけがクローズアップされるが、佐賀の場合、それに先立つ30年近くの改革が、たまたま時代の要請にマッチして表舞台に出たという面が強いことは忘れられがち。

2013-06-19 08:17:18
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

佐賀の改革が他の地域に与えた影響も大きい。特に鹿児島の島津は、佐賀の後追いをして反射炉を作って、これまた実現させている。幕末のこのような雰囲気は、やはり地方分権化を徹底させた作用だと私は思う。幕府が統一的集中的権力を持っていたとしたら、地方大名が反射炉を作るなどありえないはず。

2013-06-19 08:19:59
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

ひととおり、直正の改革政治をまとめたが、もちろん現代的な視点ではとても実現できない面も多々ある。借金棒引とか、民主的なプロセスの欠如とか。。。 前近代の改革政治の成否が、君主一人の資質に左右される不安定さも。直正の場合、有能で主張がぶれず、長命だった。これに尽きるような気もする。

2013-06-19 08:29:48
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

ありがとうございます (^_^) RT @SlaveEngineer おはようございます。幕末の佐賀藩の話、興味深く拝読致しました。無料で講義頂いているようです。ありがたいです。

2013-06-19 08:56:29
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