日本におけるケルト音楽

明治の日本で、西洋音楽が撮りいれられた経緯、そしてそこにスコットランドやアイルランドのケルト系の音楽が多かったことについての考察です。
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ケルトの笛屋さん @celtnofue

夜だし、週末だし、忘備録代わりに「日本人がなぜアイルランドの音楽に懐かしさを覚えるのか(仮)」について、たらたらツイートしてみたいと思います。ほんとに忘備録と仮説に終始すると思いますので、いつものように読み流しておいてくださいね。

2013-06-28 23:21:05
ケルトの笛屋さん @celtnofue

徳川幕府が倒れ、明治維新が興った少しあとに発表された唱歌本の中に「明治唱歌 全6集」という(明治初期時点で)これからの音楽いいとこどり♫のような歌集が発表されました。その全集に収録されている曲の、なんと3分の2は外国の曲だったんです!

2013-06-28 23:24:08
ケルトの笛屋さん @celtnofue

そこで、頑張って内訳を調べてみました。皆目不明のものも多いのですが、超ざっくりわけると以下のような構成になります。アメリカの讃美歌、ドイツのクラシック、そして英国(スコットランド、アイルランド含む)の民謡です。「庭の千草」も第1集に収録されていました!

2013-06-28 23:26:09
ケルトの笛屋さん @celtnofue

というか第1集に限って言えば、全29曲のうちの13曲が外国曲、そのうちの出自がわかっている11曲のうち半数がケルトの曲なんです!さて、それはどうしてでしょう。今回のツイートに限っては、地理的な類似(大陸の端っこの島国で超大国の横にある)といったロマン的要素は除外します。

2013-06-28 23:28:58
ケルトの笛屋さん @celtnofue

この唱歌集をまとめた人物は大和田建樹(オオワダタケちゃん)という人です。彼は愛媛の宇和島藩に生まれます。宇和島藩自体は、戊辰戦争の際にも柔軟な態度で通したフワッと藩なのですが、9歳の時に長州藩主導の「明倫館」に入学しました。きっとここがポイントです。

2013-06-28 23:33:26
ケルトの笛屋さん @celtnofue

その前に、当時の日本の情勢を振り返ってみます。彼が明倫館に入学する3年前にミナミの帝王・薩摩藩が英国と戦争を起こしました。(薩英戦争)この戦争には勝利する(英国側は本気を出していないんだけど)んですが、そこから日本の未来がケルト寄りに進みます。(偏った視点だなぁ)

2013-06-28 23:36:27
ケルトの笛屋さん @celtnofue

薩英戦争に辛くも勝利した薩摩藩でしたが、海に浮かぶ英国の文明の高さに驚嘆します。そして鎖国令が敷かれているにも関わらず、こっそりと数人の若者を英国に留学させたのです。そしてそのうちのひとり寺島宗則(ムネリン)が英国外務省に働きかけ、一転、薩摩藩を支援するようになったのです。

2013-06-28 23:40:30
ケルトの笛屋さん @celtnofue

店長はここがケルトの分かれ道だと思っています。ちなみに後に崩壊してしまう幕府側にはフランスが支援をしていました。実は動乱の幕末には、宿敵同士の、英国とフランスの代理戦争という側面があったのでした。あれ?「開国して下さいよ~」のアメリカはどうしたんだ?

2013-06-28 23:43:55
ケルトの笛屋さん @celtnofue

最初に開国を迫っておきながら、なぜか英国vsフランスの図式に取り替わってしまった原因、それはきっと南北戦争にあると思います。映画「リンカーン」などでもやってましたが、国内があんな悲惨な状態で、よその国を支配してみるなんてことはできなかったわけです。

2013-06-28 23:45:27
ケルトの笛屋さん @celtnofue

薩長同盟を結んだ後は、英国は長州藩にも支援をしていました。(そもそも外人には小っちゃい国の小さな藩の区別なんてつかない)そうして戊辰戦争が始まり、ご存知のように徳川幕府(feat.フランス)は倒れてしまいます。こうして明治新政府(feat.英国)が設立したのです。

2013-06-28 23:48:10
ケルトの笛屋さん @celtnofue

話を戻します。「明治唱歌集」を編纂したオオワダタケちゃんの話です。彼は9歳の時に長州藩主導の「明倫館」に入学します。先ほどとニュアンスが変わりましたか?そうです、明倫館もフィーチャリング英国の最先鋒だったわけです。そこで幼い頃から勉学に励み、歌集を出した、という流れです。

2013-06-28 23:50:32
ケルトの笛屋さん @celtnofue

少し話はそれますが、明治政府の初代文部省大臣には肥前佐賀藩士・大木喬任(タカトゥー)が就任します。肥前佐賀藩は、戦術の宇和島藩と同じように、戊辰戦争でも柔軟な態度を取っていた藩です。そして、戦局が大方読めるようになってから、一気に新政府側に尽力し、名を上げたそうです。

2013-06-28 23:54:01
ケルトの笛屋さん @celtnofue

そんな佐賀藩ですが、実は長崎の警護役を任じられていて英国とは外交的なつながりを持っていました。この武士らしくないフレキシブル感も、もしかしたら西欧のやり方に倣ったのかもしれません。まぁ、薩摩が勝った時点で「英国流に舵を取る」と決まっていたようなものですが。

2013-06-28 23:59:31
ケルトの笛屋さん @celtnofue

それが証拠に有名な岩倉使節団(明治政府の首脳陣たちが12ヶ国を回る視察を行った団体さん)は数多の国を訪れますが、オランダやドイツが2週間、ロシアが1週間という日程の中、英国には4ヶ月間も滞在します。(2番目はフランスの2ヶ月間)見事な鎖国の反動ですよね。

2013-06-29 00:03:36
ケルトの笛屋さん @celtnofue

もうひとつ、明治以降の教育を作り上げた「明治六大教育家」のうち4人までが英国に留学をしています。(まぁ、他にも行ってるけど)鎖国前の日本なら、中国に倣ったはずですが、その頃中国はアヘン戦争で英国にこっぴどくやられていました。先にも書いたように米国は南北戦争中です。

2013-06-29 00:07:50
ケルトの笛屋さん @celtnofue

もし日本の鎖国解禁タイミングがもっと早かったり、遅かったりしていたら、かなり未来は違った形になってたんじゃないでしょうか。単純に戊辰戦争で幕府側が勝っていたら、ぼくたちのDNAにはフランスのミュゼットあたりが「故郷を思い出す曲」とインプットされていたかもしれませんね。

2013-06-29 00:10:23
ケルトの笛屋さん @celtnofue

今回は、歴史的な流れから“だけ”に考察する「ケルトと日本のつながり」について仮説を書いてみました。イングランドとスコットランド、アイルランドの違いは、当時の日本人にとっては「よくわからないもの」だったでしょう。だからこそ、いっしょくたになってケルトの曲も混じり込んできたのかな。

2013-06-29 00:12:48
ケルトの笛屋さん @celtnofue

以上、ほとんど近代日本史にケルトのしっぽをこじつけるだけのコーナーでしたが、これにて終幕させていただきます。学校時代、歴史をちゃんと勉強していなかったので、ほとんど知らないことばかりでとっても勉強になりました。お付き合いいただいた方、いらっしゃいましたらお礼申し上げます。

2013-06-29 00:14:46
ケルトの笛屋さん @celtnofue

フォロワーさんから教えていただきましたが、音楽の構造的には日本の五音音階は西洋ではほとんど見られないにも関わらず、スコットランドやアイルランドとは共通なんですよね。このあたりも、なんでそんな飛び地とアジアが共通するのかいずれ調べてみたいと思います。(なんとなく想像はつくけれど)

2013-06-29 00:36:16