【ある中共情報工作員について】「在日華人向けの学校に脅迫の電話や手紙が相次ぐ」…から見えてきた不思議な人物
【在日華人向けの学校に脅迫の電話や手紙が相次ぐ=シンガポール紙】16日と17日の両日、兵庫県の神戸中華同文学校は日本の右翼分子から『学校を爆破する』との脅迫電話を受けた…「学生たちに帰国の準備をさせよ」とし、さもなくば「攻撃対象とする」… http://bit.ly/bZESFG
2010-09-21 22:01:06なぜ?^^; RT @bci_: シンガポール経由の中国関連ニュースが出て来た時は要注意です。
2010-09-21 22:25:58@navy_spirit なぜ、このような彼らにとって重要な事件が、新華社ではなく、シンガポールの華字紙から出るのか?私はこれを「ニュースロンダリング」と呼んでいますが、ある種のニュースは、海外から「外電」扱いで紹介し、中国国営通信社が直接取材・執筆しない傾向があるのです。
2010-09-21 22:34:32@bci_ 返信ありがとうございます。中国国営通信社が直接取材・執筆しない傾向があることでの、支那のメリットとは?スミマセン理解力不足で・・。
2010-09-22 06:09:21@navy_spirit まだ裏を取っていないので、申し上げにくいのですが、国営通信社の面子があるので、責任を取らなければならないようなことは書けない…といえばお察し戴けるでしょうか。今わかっている範囲でのことを、つづけてツイートさせていただきます・・・(続く)
2010-09-22 10:48:22http://bit.ly/9IMcwn まずこちらがシンガポールの聯合早報の記事。文頭に「据中通社报道」とあります。これは「香港中国通訊社」のことです。これは先に申し上げた「ニュースロンダリング」の特徴。先を辿れば別の通信社が出てくるのです。 @navy_spirit
2010-09-22 10:51:50http://bit.ly/aM8bht 香港通訊社が出した記事。「香港中通社東京9月20日電」とありますから、東京に支社があるんでしょうか?16日から脅迫が始まり18日に爆弾予告まで出ているのに、なぜ日本の新聞社・テレビでは扱いが一つもないのでしょう… @navy_spirit
2010-09-22 11:00:03http://bit.ly/cY9VXJ 香港中国通訊社の歴史を見ると、1956年創業、1971年に文革のため業務を中断…とあります。創立時の報道方針に「立足香港,宣传祖国,面向海外」とありますから、これはどう見ても香港を足場にした中共の対外宣伝機関です @navy_spirit
2010-09-22 11:06:06http://bit.ly/adXFb7 香港中国通訊社の創業社長「章欣潮」を調べると、中共吉林市委組織部の党史が見つかりました。同姓同名の別人かも知れませんが、党員で新聞関係者らしく、1946年以後に長春で統一戦争のための工作活動をしていたようです @navy_spirit
2010-09-22 11:16:29http://bit.ly/adXFb7 章欣潮が長春で携わった《長春新報》は中共の宣伝と国民党のネガティブキャンペーンが主目的であったようですが、なぜ日本国内の中華学校の脅迫事件が、このような背景の会社のみで独占的に行われるのか…非常に理解に苦しみます @navy_spirit
2010-09-22 11:27:43http://bit.ly/dcywN2 章欣潮の略歴を発見しました。広東生まれで香港の英文書院で学んでから、華僑日報で勤め、中共入党、軍務経験あり。香港中国通訊社創業後、1963年に北京中央党校へ異動…同姓同名の別人ではなかったようですねw @navy_spirit
2010-09-22 11:51:57【章欣潮】略歴を元にこの人物を更に掘り下げて調べてみようと思います。まず1907年の生れで、16歳で香港の華仁英文書院に入学しているというのは、家が裕福であった可能性が高い。この人物はなぜ共産主義に傾倒したのか…故郷は広東の大埔…調べてみると「三河壩戦役」が行われた場所だそうです
2010-09-22 21:20:42【三河壩戦役】南昌起義 http://bit.ly/aDoBPr で敗れた中共が南方で勢力を建て直そうとしていたところ、国民党の討伐軍と衝突。その舞台となった場所が章欣潮の故郷の大埔なのです。ここで何らかの接点があったのかも知れません。 http://bit.ly/cT4m9c
2010-09-22 21:27:59【章欣潮】1938年、31歳の時に中共入党。それまで彼は香港で華僑日報などの記者や編集の仕事をしていたので、一体どこで中共に入ったのかというのが疑問なのですが、入党後3ヶ月で陝西省北部の洛川にあった「中国人民抗日軍事政治大学」に入ってしまいます。よほど深い関わりがあったのでしょう
2010-09-22 21:35:52【中国人民抗日軍事政治大学】「解放」前に存在した八路軍幹部学校。章欣潮は1938年9月洛川で入隊したので http://bit.ly/d2gqPw こちらのページでは第1分校にいた可能性が高い。ここで彼は政治学習や、ゲリラ戦の教練に励むわけです。それにしてもスゴイ人生やってますな
2010-09-22 21:45:24【動画】『抗大校歌』中国人民抗日軍事政治大学を知る手掛かりとして http://bit.ly/8Y6kCm 校歌があります。歌詞⇒ http://bit.ly/98sEGK 「把日寇驱逐与国土之东…我们是抗日者的先锋」(日寇を国の東に駆逐せよ…我ら抗日者の先鋒)解り易い校風ですね
2010-09-22 21:51:58【「我らは共産主義の後継者」に見る中国の児童洗脳教育の典型】少し余談すると、先程の「抗大校歌」 http://bit.ly/d2gqPw は「我们是共产主义的接班人」と歌詞の内容が似ています http://bit.ly/cauFde 「DNA」は現代に受け継がれているようですね
2010-09-22 21:58:53【東北抗日大学】1939~43年、章欣潮32~36歳の時、東北抗大の政教科で勤務。時まさしく抗日戦争の真っ只中。30代前半の革命戦士が学校勤務ですから、当時中共が戦力を温存していたというのは、ここからも見て取れます。章欣潮と東北(満州)の接点はこの時から始まるようです。
2010-09-22 22:24:50【謎の2年間】章欣潮は1943年まで東北抗大の仕事をしていますが、略歴で1943~1945年は空白となっています。1945年3月に延安で三五九旅部隊に加わり、広東に向かいますが、8月15日(つまり日本終戦)に東北異動を命じられ、10月に長春入り。長春新報(中共機関紙)の編集長に。
2010-09-22 22:36:33【三五九旅部隊】1937年8月に紅六軍団と紅三十二群等を改変し生まれたのが八路軍一二〇師三五九旅部隊。戦闘と生産の両方が可能だったそうで、これは毛沢東の軍事思想そのままという気がします。章欣潮はこの部隊に参加して、広東に南下するわけです http://bit.ly/8YCr8a
2010-09-22 22:46:19【延安組】章欣潮の空白の2年間、何もしないでブラブラしていては、三五九旅部隊に参加できるとは考えられませんので、延安で略歴に書けない何かに携わっていたのではないでしょうか…そうすると彼はいわゆる「延安組」…簡単に言えばバリバリの反日共産主義者だった可能性が高いと思われます
2010-09-22 22:54:13【長春新報(中共機関紙)】章欣潮は1945年10月に長春へ到着。11月15日に長春新報の創刊号発刊。この新聞の内容は先述の通りですが、どうやら当時国民党支配下の吉林・長春で共産党軍を作るための人材募集がもう一つの目的のようです。つまりメディアによる「祖国統一戦線工作」の原型ですね
2010-09-22 23:07:36【長春解放から香港赴任まで】1948年10月に長春は共産党統治下となりますが、この頃の章欣潮の経歴を見ると、宣伝部関連のお仕事が目立ちます。このようにしてみると、中国共産党宣伝部というのは、いきなり降って沸いてきたのではなくて、こういう地道な下積みを経て、作られてきたわけですね。
2010-09-22 23:18:16【香港中国通訊社】1953年8月、北京で華僑事務委員会の仕事を始めた章欣潮は、11月に香港へ異動。中国新聞社副社長と香港中国通訊社社長を兼務します。延安組の革命戦士が、この二つの会社の経営に携わっていたというのは、その後の中共の華僑向け媒体の方向性に深い影響を与えていると思います
2010-09-22 23:22:56以上、長々と章欣潮の半生について書きましたが、なぜこんなに拘るのかと言うと、香港中国通訊社というのは普通の通信社ではないのだろうけれど、では一体何であるのか?というのを探る上で、創業者の来歴を細かく検証するのが有用ではないかと考えたからです。どうみても普通の通信社ではありませんね
2010-09-22 23:27:28