山本七平botまとめ/文化混交による二重の非合理性に潰された日本/~現代に至るまで「西欧的=合理的」「日本(儒教)的=非合理的」という奇妙な迷信をもちつづけている日本人~

山本七平著『存亡の条件――日本文化の伝統と変容――』/第四章 合理と非合理/東は東、西は西でない――合理・非合理について/120頁以降より抜粋引用。
政治 山本七平 儒教 信教の自由 存亡の条件 科挙 宗教首長支配 修身斉家 合理性 国教会 非合理性
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山本七平bot @yamamoto7hei
①【東は東、西は西でない――合理・非合理について】典型的なヒエラルキー集団の頂点といえるヴァティカンが「任命による職務」と、それによらない「″霊の選び(カリスマ)″による能力」に基づく任務の、二つの指導性を認めていることは、すでに述べた。<『存亡の条件』
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②いうまでもなく、組織は常に合理性を要請する。 しかし、人間に非合理性がある限り、その組織が完全に合理化すれば、その瞬間に、その組織は人間を排除してしまい、その結果、組繊として機能を失って形骸化し崩壊することは、論をまたない。
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③従って以上の二つを二重基準と規定するなら、二重基準でない個人も民族も、基本的にはありえない。 だが、この意味の二重基準は、互いに他を必要とし、互いに他がなければ存立し得ないから、互いに相対立する二重基準とはなり得ない。
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④いわば、この基準は、合理性と非合理性といった基準であり、各文化は常に、その組織の中で非合理性を昇華する方法をもっていた。
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⑤ところが、文化の混交は、この非合理性を、二重に重ねて、それによって、その矛盾を消去して最も合理的な行き方をさせ、急速に発展させる形で作用する事もあれば、それが逆転して矛盾が倍増し、その一民族を動きがとれないような滅亡に追い込む事もある。
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⑥…文化の混交の破滅的作用が最も明確に露呈して来るのはこの部分である。…日本の場合をふり返ってみよう。 この点でまず問題になるのは、戦後も新しい「欧化」が始まった為、現代に至るまで多くの人は「西欧的=合理的」「日本(儒教)的=非合理的」という奇妙な迷信をもち続けている事である。
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⑦この見方はもちろん無根拠で、日本(儒教)的な合理性も存在すれば、西欧的な非合理性も存在する。 人間が人間である以上、またそれが社会を構成する以上、共に合理・非合理の両面をもつのが当然であろう。 そして前述のように社会は常に合理性を要請する。
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⑧そこで儒教は非合理性を自己に還元して、これを内心の問題として解決することによって、合理的に社会を構成し運営しようとする。 従って儒教を体得した者が科挙の試験を受け、これに受かれば士大夫となって統治の中枢となり、その基本には「修身・斉家」を置く。 これがその基本形であった。
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⑨一方、西欧は、非合理的な面を社会の一部に組織化し、いわば非合理性に社会的枠をはめて、その外で社会の合理的処理を行おうとする。 いわば国家と教会の相互不干渉(信教の自由)、宗教的・民族的・国民的伝統と現実政治との実質的分断という形で合理性を実現しようとする。
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⑩信教の自由という言葉は、通常、日本では、政府は国民の宗教的信仰に干渉してはならないの意味だが、 西欧におけるこの問題の焦点は、むしろ、教会乃至は宗教的カリスマ的指導性が政治に介入してはならない、 いわば、宗教からの政治の自由にあった。
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⑪これは、政治の脱宗教化に、異常な苦しみをなめた文化圏と、はじめから脱宗教化していた徳川幕府の統治を当然として来た民族との、受けとり方の違いであろう。 それが「予算の議決権と執行権」さえ握れば、他はすべてどうであろうと、一向にかまわないというイギリス的行き方になる。
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⑫名目的には、国王の政府であろうと国王の軍隊であろうと、国王が国教会(アングリカン・チャーチ)の宗教的首長であり、従って外形的にはイギリスは今なお戦前の日本よりはるかに中世的で、(続
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⑬続>サウディ・アラビアと同様、最も原始的な宗教首長支配の国であろうと、そういう非合理性には、逆に、一切タッチすべきでない、「合理的部分」だけを的確に把握して、他はすべて棚上げにすればよいという考え方がそれである。
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⑭儒教圏と方向は違うがこれも一つの合理性の追求と確立をめざしており、その点では同じである。 この二つの合理性が併存して、それぞれ正の面を発揮すれば、それは最も合理的で統治しやすく、かつ急速な発展を約束された社会である。 明治期と戦後期の急速な発展にはそれが見られる。
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⑮しかし、いうまでもなく、合理性と非合理性は固く結合しており、それは封建社会であれ、また資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、変りはない。 確かに人類は非合理性なき社会を夢み、今もある国がそうであると夢想したがる。 しかし、その夢は当然のことながら常に裏切られた。
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⑯またいずれの社会であれ、非合理性の″攻撃″にさらされており、それは常にさまざまな運動や事件として新聞紙上に報道されており、ソ連、中国とて、その例外ではない。
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⑰それらを思い合わせれば、儒教的合理性と西欧的合理性の併存は、明治と戦後の二つの激動を乗り切るにあたって、前述のように格好の武器であったろう。 何しろ社会は法的に合理的に構成され、一方、それより生ずる非合理性は各人が内心の問題として解決してくれたから。
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⑱だが、この合理性は共に非合理性と裏腹の関係にある。 西欧の場合の非合理性は、いうまでもなく伝統的な「殉教者自己同定による自己または特定集団の絶対化」であり、 儒教の場合の非合理性は「社会問題の自己同定化による内心の解決」と、その逆方向への発散である。
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⑲…両者は長い伝統により、それぞれ、それに対する一種の免疫と抵抗素をもち、又それを消去する手段をもっていたが、しかし昭和初期の日本は(そして恐らく今の日本も)この二重の非合理性が累加して弱点として露呈した時、全くこれに対する手段をもたず、哀れな程無抵抗に瓦解し、破滅した訳である。

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