@medtoolzさんの「説明をするとき」のついーとまとめ
観客にも台本みたいなものがあるんだと思う。読めないし、文字にもなっていないんだけれど、台本が伝わって、それを演じることで、満足につながるような。台本が見えなかったり、台本を演じているようで、はしごを外されてしまったりすると、台無しになる
2010-09-22 20:56:28コンサートでヲタ芸やってる人たちなんかは、それをあとから見ている誰かに笑われるのを折り込んで、でもそれは、笑いをとっているのであって、笑いものになっているのではないんだと思う
2010-09-22 20:57:41笑われても、笑いをとりにいっているのならば、それは成功になる。笑いものになってしまったなら、惨めになる。分かりやすい台本が用意されていて、それを演じきれていたのならば、笑われることそれ自体は、芸を演じる人にとって、気持ちよさの妨げにはならない
2010-09-22 20:58:44台本を演じるためにそうした舞台に出向いて、そこで台本の流れが途切れたり、はしごを外されてしまったりすると、笑いを取りに行った人たちは、笑いものに転じてしまう。これは本意でないし、恐らくは笑われることは、不快に直結する
2010-09-22 21:00:03分かりやすく驚かせないと、その驚きは、単なる不快とか、裏切り、という感覚にしかならないのだと思う。驚きを入れるならば、だから最初から「驚きがあります」ということ、驚きの方向とか、大きさみたいなものを、あらかじめ「観客の台本」に折り込んでおかないと、大失敗する
2010-09-22 21:01:28こういうのはたぶん、人をたくさん集めるような会場を運営するときもそうだし、自分たちの病状説明みたいな、もっと個人的なものについても、聞く側の台本みたいなものを意識しないといけない気がする
2010-09-22 21:02:11自分たち話す側が、あらかじめどんなことをしゃべるのか、ある程度準備しておくことは当然にしても、それが聞く側にとって、どこか台本の流れを阻害するものであったり、はしごを外された、なんて感覚を招いてしまうと、せっかくの面談が、むしろ状況を悪くする
2010-09-22 21:03:03@chikumaya ジョブスのあれなんかも、こう、「わー」っと盛り上がるべき場所とが明示的で、観客が一緒に盛り上がるところまで含めて、一つのプレゼンテーションになってる気がするのです。。
2010-09-22 21:13:20台本というものが、演じる側だけで完結するものであるという考えかたは良くないんだと思う。観客に相当する人たちに、あらかじめ「役割」みたいなものを当て込んで、それを明示的に演じてみせるのが正しい
2010-09-22 21:15:37観客の側への台本の伝達が上手くいっていれば、大盛り上がりの大合唱になるし、伝達がない状況で、舞台の人が、観客席にマイクを向けたところで、白々しい沈黙が返されてしまう。
2010-09-22 21:16:34ひな壇芸人の人たちは、恐らくは良い観客というか、司会者が潜在的に「こうしてほしい」というのを読む名人が生き残るんだと思う。裏を返すとニュースの解説番組なんかで、驚き役のあの人たちを生かせない解説者は、やっぱり解説はできても司会はできない
2010-09-22 21:18:13病状説明するときには、どうしても自分たちの側が「教える」役割になるのだけれど、面談の後半で、教える側と、教わる側との立場を入れ替えることができたのならば、その面談は大成功なんだと思う。
2010-09-22 21:19:47立場の入れ替えはその代わり、慎重にやらないと台本の断絶が発生するし、そうなると今度は、「この主治医大丈夫?」みたいな不信が生まれてしまう気がする
2010-09-22 21:20:23ザ・ロックとハルクホーガンの一騎打ちのときには、両雄があまりにもスーパースター過ぎて、観客が応援する側を一方に決められなくて、ロックが人民肘を出すまでに、えらく苦労していた。あのとき2人は、お互い戦っているようでいて、実際には観客と戦ってた。
2010-09-22 21:22:21こう、流れとしてここは誰かが火中の栗を拾いに行かなきゃいけない場面というのはどんな組織にもあって、そういうときにリスクをとってくれる人を、まわりは「さすが○○さん」とか、「こういうときには○○さんしかいません」とか持ち上げる
2010-09-22 21:37:38リスクをとることで、それがなにがしかの報酬であると感じる人と、誰かを誉めることで、結果としてそれがリスク回避になっている人とが同じ組織にいると、役割分担が生まれて、危ない橋を渡る人は、もっと危ない橋を渡ってみせるはめになる。そういうことが起きたんだろうとは思う
2010-09-22 21:38:35