知猫楽 「須恵器と土師器と美濃の国」

美濃国印のある須恵器の大量出土のニュースについてのお喋りに頂いたリプライをまとめました。 興味深いご教示ありがとうございました。 このをみな、をかしきことあらむとて、夜な夜な電子の江へと出でてさまよふ。 さなることなど、なにかべちのことにあらずとも、そのこころにをかしと思ほゆることなどしるしたるものなり。誰か知るらん魚の楽しからずや、ただ知れるは猫の楽しみのみ。
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ロック @AgRock55

美濃国表記ですが、和銅六年(713年)に諸国郡郷名著好字令が出されて畿内と七道諸国の郡・郷の名前を二字の好字を選んでつけるようにと命じられたのでそれ以降に多分「美」の字が当てられたものと思われます。(美が使われた例がそれ以前にあったらすみません※要確認)

2013-07-05 22:34:17
ロック @AgRock55

それ以前の古い表記としては「三野国」「御野国」などがあるようなのであまりこういう構成からかけ離れた字ではなかったような印象です。

2013-07-05 22:35:16
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@AgRock55 古事記でも三野国とか美濃国ですね。日本書紀景行天皇条に国名ではなく地名として「美濃」の表記がありますが、編纂された時点での表記に合わせた可能性が高いんじゃないでしょうか ( ゚д゚ )。美濃国がどうかなさいましたか?

2013-07-05 22:59:45
ロック @AgRock55

@k_h_musume あー美濃国に関してはこの記事による派生だったのでした(ノ´∀`*) 中日新聞:東濃初の「美濃国」刻印 妻木平遺跡から須恵器破片:http://t.co/QK7jdEtSod

2013-07-06 00:08:10
ロック @AgRock55

「美濃」表記は日本書紀や古事記にもあるのですねー。しかし文献だと確実にその当時使用されていた表記とは言えないような気もするし~ 明日香や藤原宮から見つかっている木簡などにはあまり美濃の字が見えないような。

2013-07-06 00:12:42
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@AgRock55  ( ゚д゚ )おおそんなことが。美濃国府って比定された遺跡があったような気がしますから、ここは官営の須恵器工房とかかな~。表記揺れは悩ましいところですね。同じなのか違うのかはっきりして!って感じですσ(^^;)。

2013-07-06 01:24:20
ロック @AgRock55

@k_h_musume おそようございます…美濃国司もなかなか気になる人物が絡んでいるので調べていたら表記が色々あるんだな~と思った次第で…。美濃国府跡は神社の境内から遺構が発見されたらしいですね。美濃国刻印の須恵器も各地で発見されているようで官営工房の説に納得です。

2013-07-06 13:12:05
Gijyou @gijyou

@k_h_musume @AgRock55 この「美濃国」印須恵器を焼かせたのが笠朝臣麻呂という人物で、美濃国司と尾張国司を兼任します。尾張北部でもこの須恵器は良く出土し、最近では尾張国府周辺からの出土しました。 http://t.co/fwRCEotNZO

2013-07-07 09:30:07
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

ありがとうございます(*´∇`*)。ちょうどロックさんのポストをきっかけに、須恵器の焼成技術の伝播や、土師器との生産交代の時期が列島をどんな経路でどのくらいの時間をかけて伝わっていったのか考えていたところでした。 @gijyou

2013-07-07 09:41:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

確か東北で須恵器と土師器の生産交代が起こった時期は、ちょうど38年争乱の時期と重なっていたような記憶が…。

2013-07-07 09:45:31
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

私は美濃・尾張って、継体以前は畿内とは別の支配系統の地域だったと思っているので、この三国を任された人はなかなか大変だったろーなーと想像σ(^^;)。信濃は信濃で微妙に違う気がするんだなあ。

2013-07-07 09:58:50
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 「美濃国」印須恵器は岐阜市老洞窯と各務原市美濃須恵窯で焼かれており、これらは8世紀初頭の指標になります。尾張は5世紀以来、伝統的に東山・猿投窯産が流通していますが、8世紀前半のみは美濃産と尾北窯(小牧・春日井市)産の須恵器が広範囲に流通します。

2013-07-07 10:05:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

野焼きで作れる土師器と、窯が必要な須恵器。当然、生産するのに必要とされる社会の構造や情勢も違うよね。…ってこれは大規模な稲作にも通じるのか。つまり田租を挙げられるような…。

2013-07-07 10:08:46
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 土師器に関しては正倉院文書に有名な「浄清所解」という文献が残っており、男女1組が手分けして製作したことが解っています。奈良時代の食器の価格はサイズで規定されているために、小規模生産の土師器が有利となり、須恵器生産の衰退を招いたという研究があります。

2013-07-07 10:16:47
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

あっ!土師器生産にそういう利点もあったのですか!。だから長く両方が作られ続けたのですね。現代の商業生産の需要と供給関係にも通じますね ( ゚д゚ )。 @gijyou

2013-07-07 10:22:58
Gijyou @gijyou

@k_h_musume これはかつて奈文研におられた故・西弘海さんの画期的な研究によるもので、それまでは奈良時代に大阪・陶邑窯が衰退するのは燃料となる森林資源の枯渇が原因とされていました。猿投窯は9世紀代に逸早く緑釉陶器や灰釉陶器生産に切り替えたおかげで生き残ることができました。

2013-07-07 10:28:43
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

猿投で緑釉陶器が造られていたのですか。すぐ近くに住んでいたのに知らなかったです(>_<)。 @gijyou

2013-07-07 10:37:23
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 猿投窯とは名古屋市東部から豊田市、みよし市、日進市などかなり広い範囲を指しています。緑釉陶器が焼かれていたのはもっぱら名古屋市緑区・天白区辺りですね。ちなみに緑釉陶器は中国産青磁の、灰釉陶器は白磁の廉価版として作られ、京で重宝されることになります。

2013-07-07 10:43:12
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

名古屋に住んだ最後の一年、緑区滝の水南麓で暮らしたのにまったく知りませんでしたσ(^^;)なんだかとてもシマッタ感が。 @gijyou

2013-07-07 10:46:42
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

私が住んでいた頃の名古屋市東部付近で歴史関係で取り上げられるっていうと、桶狭間と豊田博物館と有松絞りって感じだった気が…こうして他にもあるんだよね、話題にはならなくてもσ(^^;)。

2013-07-07 10:54:10
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 滝ノ水に近い熊ノ前に緑釉陶器の窯があったとされていますね。一応、報告書は出ていますが、緑釉陶器焼成法の実態はあまり良くわかっていません。

2013-07-07 10:56:15
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

ありがとうございますm(__)m。古代から社会的生産を左右する条件は、材料の調達や技術の継承だけでは無かったのですね。いつもとても大切なことに気づかされます!。。 @gijyou

2013-07-07 11:08:41
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

こういった須恵器や土師器の生産が律令体制下の地方行政の指導で行われていたのであれば、やはり在来氏族(旧国造など?)勢力や国司との協力体制は絶対必要だったんだろうなあ…。

2013-07-07 11:09:48
Gijyou @gijyou

@k_h_musume その点が尾張では微妙で、一説には8世紀初頭の尾北窯は国造である尾張氏が経営する猿投窯から技術者を裂き取って、国司とそれに従う中小豪族が経営したとする研究者がおられます。ただ中小豪族自体も本来は尾張氏に連なっているので、本当にそう言えるのか私は疑っています。

2013-07-07 11:18:03
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou  あららσ(^^;)。在来勢力と中央からの派遣官吏の軋轢や競争が無かったとは思いませんが、婚姻だってあったでしょうし、渡来人の移住もあったでしょうし…。一概には言えなさそうな気がしますが…。

2013-07-07 11:56:39