- yoshikun2009
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さて、まとめ http://t.co/FPuFk555t8 でも出てきた質問なのでここで1990年代前半の「政権交代の夢」について。
2013-07-14 12:36:1480年代後半、売上税(消費税)導入がきっかけとなって自民が参議院で過半数割れを起こすという状態になった。ここで社会党には政権獲得のラストチャンスが巡ってきたのである。
2013-07-14 12:46:36東欧革命で冷戦が終結しようとする状態で社会主義に逆風が吹く状態であったが土井のマドンナ旋風と自民の選挙運営が奇跡的にまずかった(選挙下手の橋龍に宇野のスキャンダル)こともあり、社会党にボールが転がり込んできた。
2013-07-14 12:50:13ところが90年の衆院選で土井はこのチャンスを生かしきれずに政権獲得に失敗する(この時の社会初当選組が仙谷や赤松であったのは運命のいたずらだろうか)
2013-07-14 12:54:06片山以来再三のチャンスをフイにしていた社会党の失敗は今から見ると当然にも見えるのだが、東欧革命で世界情勢が激変するさまを見ている国民にとっては政権交代はしたい、しかし社会党は頼りにならないと判断された。
2013-07-14 12:57:34他の野党も自力で政権をとる力はないとみなされた。国民からすると自民に対抗できる政党、保守だが自民と一線を画した政党が望まれた。
2013-07-14 13:01:31ここに登場したのが日本新党である。党首細川は自民出身ではあったが旧家族・大名家の人間であり、金丸などに象徴される「自民の政治家」イメージとは異なる。また、候補者も従来とはイメージの異なる若年層であった。
2013-07-14 13:06:06日本新党はまず、92年の参院選で4議席を獲得。注目を集めていく。 この時期・大前研一が平成維新の会を結成、社民連の江田も社会党系を中心とした政策集団シリウスを立ち上げるなど、政界再編の兆しが見え始める。
2013-07-14 13:20:44自民党政治の象徴とも言える最大派閥経世会が2トップの一方・金丸失脚を機に分裂、金丸よりだった羽田・小沢らは新グループ・改革フォーラム21を結成。翌93年には正式に独立派閥となる。
2013-07-14 13:28:34竹下に近い武村も派閥横断型のグループ・ユートピア政治研究会の活動を活発化する。ここから宮沢の嘘つき解散、羽田・武村らの離党、細川内閣成立と続く。
2013-07-14 13:36:51さて、ここまでは前振りで本題はここから。本来、細川はすぐに自民を下野させるつもりでもなかった。ところが、他の日本新党議員や世論は下野を望んだ。
2013-07-14 13:40:25また、もう1つ誤算だったのは小沢が羽田と一緒に離党して新生党幹事長になっていたことだった。当時は小沢こそ旧態然とした自民金権政治の象徴という意見が多かったのである。
2013-07-14 13:42:16この「羽田さんの力を借りたいけど小沢さんの力は借りたくない」という発想は特に日本新党の議員に多かった。自分たちが敵認定していた相手と組むことになるからだ。
2013-07-14 13:45:41政治の世界では敵勢力と組むなど普通の話ではあったが、旧来の政界を否定しようとした彼らには受け入れがたいものだったのだろう。
2013-07-14 13:48:03結局細川内閣は1年足らずで崩壊し、あとを継いだ羽田内閣も社会・さきがけの離脱で終焉した。 日本新党のスタッフには「小沢さんの目でひどい目にあった」「背伸びせず地道に日本新党を成長させ、自民に並ぶ政党に育てればこんなことにはならなかった」という印象が残った。
2013-07-14 13:53:51だが、有権者は見ていた。「ただの数合わせだけの政権はためにならない」と。 日本新党の後裔である新進党・民主党はなかなか衆院過半数に到達できなかった。数合わせの政局遊びが続くなら自民政権のほうがマシ、と判断したのだろう。
2013-07-14 13:59:21自民自身が数合わせのために小泉を出してから動きが変わる。93年体制での新議員タイプ93が政権のため一時的に小沢アレルギーをこらえ、小沢が反小泉票を吸収するため幕の内的な公約を作り出し、小泉を継いだ安倍がその動きを軽んじた所で民主党政権が成立した。
2013-07-14 14:04:47政権交代など一政局にすぎない。だが人は時に、政策がどうであれ、指導者の顔ぶれが変わることを望む。日本の議会政治においても19世紀末・戦間期・第二次大戦後と何度も湧き上がった夢なのである。
2013-07-14 14:10:00