千坂恭二氏による、芸術と犯罪(あるいは戦場にいかない芸術家)

千坂恭二氏について⇨http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9D%82%E6%81%AD%E4%BA%8C 以前のまとめ 千坂恭二氏による美的国家としてのナチスと芸術 http://togetter.com/li/514883
思想 芸術 犯罪 ナチス
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千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
文学や思想をやっている者には、素直なヘソ曲がりともいうべきところがある。純粋で素直なのだが、批判意識がそれとは別の意地悪でヘソ曲がりな表情を作り出したりしている。だから素直かと思えばへそ曲がりであり、へそ曲がりかと思えば素直であったりする。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
トーマス・マンは、作家という者は、犯罪者と同じようなメンタリティを持ちながらもネクタイを締めて真面目に生きている者のような存在だと言ったが言い得て妙だ。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
トーマス・マンでは芸術家は、犯罪を行わない犯罪者のような存在だが、エルンスト・ユンガーになると犯罪者が犯罪を行わずに芸術家となる。ユンガーの場合、犯罪者に該当するのは戦士(兵士)になるが。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
トーマス・マンとエルンスト・ユンガーの違いの間には、戦争(という平和な日常からすれば、犯罪にも等しい殺戮と破壊の現実)が介在している。芸術家も未来の芸術家も戦場へ行き、敵を殺し、また死なねばならない現実だ。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
戦場へ行かなかった芸術家は、芸術を戦場とすることとなる。彼はそこで、芸術を破壊し、芸術を身も蓋もないものにすることとなる。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
芸術が粉々に破壊された廃墟の現実、これこそが戦場へ行かなかった芸術家にとっての芸術となる。ただしそれは自足的に肯定されては駄目なのであり、それを芸術として肯定しようとする立場を、永遠に否定し続ける必要がある。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
自分のやっている芸術行為に対する否定意識のない芸術家は、屑とはいわないまでも、それに等しい。なぜなら、そこには無自覚にせよ、芸術を特権行為とする意識があり、芸術を犯罪を超えたものと捉える意識があるからだ。そんな芸術は破壊することが芸術の名に値しよう。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
ナチスの頽廃芸術観のある意味での、芸術的な正しさは、犯罪と言う現実に対する特権性を存在の根拠とした芸術の胡散臭さを告知したところにあるといえるだろう。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
ナチスの頽廃芸術展は、犯罪を僭称する芸術に対する、犯罪の側からの贋物という告発だったと受けとめるべきだろう。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
ダダイズムを表現の在り方だとか、新たな表現の方法だと捉える立場は、ダダイズムを表現に拘束するものでしかなく、ダダイズムの矮小化、いや歪曲にほかなるまい。ダダイズムとは表現を通して、表現を着きぬけ、表現の外へ出ようとすることだろう。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
もし、ダダイズムを芸術表現の一つだとか、芸術表現の方法だと見なすならば、そのようなダダイズムは、近代的な芸術表現にすぎず、犯罪としての現実により頽廃芸術として否定される、贋物としての近代の一つにすぎない。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
あるいは、こうもいえるかもしれない。ダダイズムを芸術表現として捉えるとすれば、それは、作品外の芸術表現であると。作品化した芸術表現こそダダイズムが否定したものだろうからだ。そうでなければダダイズムは下手な演芸か茶番にすぎなくなる。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
芸術の破壊としてのダダイズムを、芸術のパンテオンに陳列しようとする輩が多いが、芸術のパンテオンなど頽廃芸術のパンテオンだと否定し続けなければならない。
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
芸術のパンテオンを破壊し続けるためには、私の年若き同志がいうように、ダダであるためにはファシストになる決意と思想が必要になろう。

コメント

永瀬恭一(一人組立) @nagasek 2013年7月15日
まとめを更新しました。時間順も訂正しました。
未知神明(みちがみ・あきら) @ontheroadx 2013年7月15日
どの本のどういう文脈で言いましたか 「トーマス・マンは、作家という者は、犯罪者と同じようなメンタリティを持ちながらもネクタイを締めて真面目に生きている者のような存在だと言った」
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