【シューニャリアーナ幻想詩】キャラクター文化宣言

別名、幻想主義宣言。 というのは僕の勝手なネーミングですが、 そんなことはどうでもいいんです。 キャラクターたち、そこにいる誰かが好きだと言う素朴な、大切なことを真正面から肯定したいのです。
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誰かに出会う、とはどんなことなのだろう
誰かを知る、とはどんなことなのだろう

誰かに出会い、それが誰かである、とわかる
ものでもなくばしょでもない、なにかこえのようなものをかけてくる魔法のような存在
それがなんとなくわかってしまうものだ

そしてそんな世界で、僕たちは「かわいい」誰かに出会う
心をときめかせるなにかだ
今は「かわいい」はいろんな意味で使う
けれど、ときめきの「かわいい」の力が消え去ったわけでは微塵もない
同じ世界で、僕たちは「かっこいい」誰かに出会う
かっこいいのも、心をときめかせるなにかだ
「誰か」は、「かわいい」や「かっこいい」のような魔法を僕たちに教えてくれる

世界はこんな魔法で満ちている
「セクシー」「色っぽい」「偉い」「強い」「優しい」「怖い」「きわどい」「初々しい」「美しい」・・・・・・

そして、その「出会い」はいつか別れになる
別れた後も、その魔法を忘れてしまうことはない
出会わなくなって、その誰かがいなくなって、その誰かのどこにもいない時代がやってきても
その誰かがかわいかったり、かっこよかったり、いろいろな魔法を持っていることは変わらない

―― ☆ ――

時代が過ぎてもかわいい子はかわいい
誰もが忘れてもかっこいい人はかっこいい
属性とかそういうのを一切取り払って、まっぴらな気持で好きなキャラを見詰める
それで自分の好きなキャラクターたちを一つの絵画のうえに集合させたら
きっとすごく楽しい絵になるんじゃないかって

烏山石燕さんは「百鬼夜行」って絵を描いていたけど
好きなキャラを一切のとらわれた属性の先入観なしに
そしてなんのつけかえもなく沢山描き、ともに行列をつくらせたら
それはそれはきっと暖かな絵になる筈

偉そうな顔をした芸術家たちがそれの真似っ子をして大失敗した
それはつまり、キャラクターを属性や萌えられている「部分」にくだきくだきくだきちらすことで、
それを消費する人たちの世界を表現する、っていう、なんとも目的が二次的で何も感じさせない絵だった
その人たちとはちがう集団だけど
芸術家の人はいっつもこのへんがわからないのだろうな
けっきょくそれまでにあった物語やその世界に、すでにいた人を
「再現」せず「真似」しただけの作品が藝術として提出されていたんだな
もちろん、そこにはなんの感情も与えない
空しい暴力が響いていた

彼らは僕たちが覗きこんでいる世界を「平ら」だと言った
僕たちが見ている世界は
前も後ろも無い
ただの平面の絵でしかないと言った
彼らは僕たちが覗きこんでいる世界を「うそ」だと言った
僕たちが見ている世界は
ほんとうの姿が見えない
嘘を嘘でつくりあげるだけの世界である
嘘だから好き勝手出来る世界だと言った
彼らは僕たちが覗きこんでいる世界を「データ」だと言った
僕たちが見ている世界は
しょせんパーツの組み合わせ
組み合わせで福笑いするだけで
ぼくたちはホイホイ釣られるやつらなんだと言った

そしてその考えは一つのまとまりをなして『論文』になった
論文は芸術家たちをこころおどらせた
そのこころが描き出した世界
なにも、だれひとりにもであったことのない、妖精も幻想もない空っぽのこころが、
そんな「平ら」で「うそ」なだけのキャラクターを描かせた

どうみてもあの子なのに、その子を描いているわけではない
じゃあなんでわざわざ極限に似せたんだ
結局それは同じこと
<消費>される対象としてデフォルメしただけ
そんなものに藝術としてのきれいさも
<萌え>として表現されるかわいらしさもかっこよさもへんてこさも
その「誰か」への愛着も感じられるはずがないんだ

僕は見てきた
それを見て哀しむ人を
自分の元からいなくなって寂しさを憶える人たちを見てきた
たしかにそこにいたはずなのに
勝手に嘘にされた
哀しさ
寂しさ
悔しさ

遠く遠く僕らが見ていた世界からも嗚咽が聴こえた
歌声の綺麗な彼女がないていた
冒険を愛する少年もないていた
愛されていた想いを追い剥がれた文字列の仲間たちも
おんなじような声をだしていた気がした

いるはずの自分を奪われた
あるはずの愛を殺された

ぼくたちはこんなじゃなかったのに
ぼくたちはこんなじゃなかったのに

ひとつの<写真>に映る<誰か>のことを見ることは
こんな複雑で残酷なことじゃなかったのに

もっと楽しく描いていく絵画であったはずなんだ

-☆-

そうかんがえたとき、ふと絵画の広場を訪れる
沢山の人が、誰かの作品に出てくる<誰か>を描いている
その子が好きだから そのヒーローが好きだからとにかく描いている
物好きな人なら、複数の世界の人を一緒に一枚の画用紙で手を繋がせる

その時僕は毎回気づかされる
僕達が好きなものは、本当はデータに並べられた属性でもなければ
その属性によって構築された商品などではない、と
商品を通して
それならざるものを
いや、それ以前に
ただただ「自分の好きな誰か」として見ているんだってことを

キャラクターが好き、とはそういう事なんだと
その「好き」の気持ちが キャラクターへと触れる気持ちを起こす
その気持ちがあるから そこからいいところがたくさん見つかる
その見つかったいいところが ぐうぜん特徴としてならべられただけなんだ

僕は恋したときの気持ちを知っている
人を好きになるのはとても不思議だ
可愛いから好きになるんじゃない
好きだから可愛く思えるんだ

そう考えると、僕は涙が出そうになる
これまで僕はなんておびただしいかずのキャラクターたちを見てきたんだろう
今まで作ってきた人たち、それを発表するために打ち出した人たち、

そしてそれを一生懸命受け取ってきた人たちは、なんておぞましい数の人たちに出会ってきたんだろう、ってことに
いったいどれだけの「誰か」が、この世に顔を出して、出番を失い、流せない涙をどこかで流しているのだろう、ってことに

だから、僕は今このキャラクター、…こんな言い方、ほんとはしなくたっていい―――
『誰か』を描くこと、それが文化になるって力を持っているこの国の文化を、
発光させる力になる絵がどんなものか、考えてみたんだ

それはそれは、きっととってもかんたんなことじゃないだろうかと思えてきたんだ
藝術だとか評論だとか、教養だとか哲学だとか思想だとか、
商売だとか提供だとか消費だとか産業だとか、
そんなものと一切、関係のない世界、
ただただ自分の見てきた世界を描けばいいんだ、ってこと

それが、たとえ既に誰かに描かれた世界のものであるとしても
それが好きだ、と思い、追いかけてきた道
それは絶対に嘘じゃない
それを描くことを、今まで誰も止めてこなかったじゃないか
押し殺すことなんてできない、その人の心の世界だってこと
それをみんな知っているってこと

自分が見てきた世界を、見てきたように
見たいように
素直な気持ちで描くこと

もしその「誰か」に、想いをお返ししたいなら、
出会ってきた人たちをみんな一つの「自分」という風景のなかに描ききること
それこそが一番大切なんじゃないかな、って

一つの額縁に、いろいろな世界の-キャラクター-とされる<誰か>たちが
ところせましと そしてなんの法則性もなしに
一つの街や草原、道路や商店街で遊ぶんだ
そんな絵画を人が見たら
たとえその出典を一つも知らない人でも喜びの声を漏らすだろう
僕はそんな自信がある

そしてそんな享受の物語を絵画にする
それができて、はじめて
「キャラクター好き」の人たちにとっての最大の美術館ができるんじゃないかな

美術館で<キャラクター>の文化を描くなら
かれらへの「好き」を画面いっぱいに描いた絵
『誰か』を愛する僕らの文化と言うのなら
その愛する僕らの見ている楽しみのすがた、歓びのすがた
それを展示しなければならない

そんな心の不思議な力を見もしない世界でキャラクター、なんて文化論を形にしたって
それは『誰か』を楽しむ文化を描いたことには絶対にならない

僕はそう思う