岡﨑乾二郎さん、多木浩二さんについて考える その2

多木浩二さんについての岡﨑乾二郎さんの発言のまとめ、その2
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建築と日常/出版長島 @richeamateur

多木さんの活動は幅広いと言われますが、80年代に崇高という概念に向かったことが、その後の多木さんの活動全般を規定(象徴)するような出来事だったということでしょうか? というのは… @kenjirookazaki

2013-07-17 20:37:08
建築と日常/出版長島 @richeamateur

『多木浩二と建築』の坂本一成さんへのインタヴューでは、篠原一男のクライマックス的表現から坂本一成のアンチクライマックス的表現へ、多木さんの関心が移っていった(70年代後半)という見立てだったのですが、それは崇高への接近とはベクトルが逆な気がします。 @kenjirookazaki

2013-07-17 20:37:53
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@richeamateur 前提確認として。当時喧伝されたポストモダニズムは端的にモダニズムの失敗=敗北を意味するもののはずでした。モダニズムが失敗したのであればモダニズムが切断したはずの有象無象、無数の文脈も階層なく入り乱れ復活してくる。

2013-07-18 02:25:04
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateur承)すなわち改めて歴史の厚み、澱みが現れ、それに包囲される。様々なローカルなルールときに迷信と区別つかぬ土地の怨霊さえも名誉恢復する。当時の多木さんが対峙していたのも(モダニズムの視界の外から蘇りつつあった)この歴史の厚み=澱みだったはず。

2013-07-18 02:28:02
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateur 承)けれど当然、であれば西欧と日本では事情が異なる。例えば日本で西欧の歴史的意匠の様々は(歴史的文脈と対峙することなしに)かなりお気楽に操作できる。すなわち近代化の初め、明治の疑洋風と同じく(そう考える人もいた)表層の操作で済む。

2013-07-18 02:30:32
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@richeamateur承)ゆえに60年末以来の日本のポップな記号建築がポストモダンに先行してると当時扱われたとしても西欧においてポストモダンは決してお気楽でなくむしろ鬱陶しい歴史の澱み、複数の文脈の容易に解決できぬ葛藤の復活を意味したゆえ、厄払い役としてちやほやされただけ

2013-07-18 02:37:54
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@richeamateu承)日本では西欧由来の歴史的意匠を用いようと、この歴史の包囲(いまここにある身体として包囲する歴史)に出会うことはない。西欧の疑似歴史意匠を扱う限り、むしろポストモダンはいかなる歴史からもモダニズムの規範からも解放された、非歴史的な場への逃避を示すだけ

2013-07-18 02:40:10
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@richeamateu承)日本におけるポストモダニズムの下品=忌むべきはこの忘却と能天気。多木さんはdignityの欠如と。そもそも歴史の瓦礫に包囲されているという憂鬱、絶望もなしところに、ベンヤミンのいう歴史の天使が訪れるはずもない(と多木さんも感じていたのでは)。

2013-07-18 02:46:23
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@richeamateu承)この鬱陶しいポストモダンの迷路(出口を失い、瓦礫として、渦巻くだけの歴史主義の閉域)を突破する原理として再び「 抽象」の意味が読みなおされ、大雑把にいえば、そこに表象の限界(破綻)を示す崇高が、見いだされたのだったと思い起こされます

2013-07-18 02:47:57
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateu承)おそらく日本の、近代以降形成された見近な日常、ルーティン化した制作論理の中でだけ、例えば、住宅を捉え制作するだけではこの恐るべき歴史の澱み、層に出会うことはない。むしろ建築家ではなく、生活者こそがこれに縛られているはずなのだけれども。

2013-07-18 02:49:46
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateu承)福岡ネクサスから帰った多木さんがコールハースを褒め「日本の建築家と根本的な力量がちがう。そもそも相手にしているものが違う」と。重要なのは「相手にしているものが違う」という言葉。それはキーファーを褒めるときもピナ・バウシュを褒めるときとも同じだった

2013-07-18 02:50:57
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateu 承)多木さんにとって芸術は象徴に位置づけられるものだったのでしょう。すなわち芸術は表層的生活の諸事情など突破し垂直に歴史から引き出される。あるい歴史に向かって、杭のように打ち込まれるものだった。われわれの所与としての身体がそうであるように。

2013-07-18 02:53:40
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@richeamateu 承)以上は、多木さんの諸テキスト(今、身近にないので)にあたることなく、いくつかの思い出とかって読んだ記憶を元にした個人的感想(印象)にとどまります。改めて読み直してもみます。

2013-07-18 02:55:25
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

承)追補「〜星田の経験を分析する」1992の最後で多木さんは半ば唐突に、自己同一性を喪失した他者たちが、何の保証もない不安に包まれつつ行き交う(が、これほど自由な空間もない)―巨大な力の作用としてある、こうした空間(空虚)こそが、現在の社会であり、この巨大な力としての空間(空虚)

2013-07-18 17:23:18
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

承)この巨大な力の生む空虚—いかなる個人も特性を喪失(他者とし)、巨大な力と向き合わせる。建築の可能性はこの空虚を空間として構成することではないか、と。こんな多木さんの思考にコールハースへの傾倒。いや未来派—ファシズムに通底する崇高への傾斜を感じました.@richeamateu

2013-07-18 17:46:39