山本七平botまとめ/偶像に感情移入する”臨在感的把握”とは/~一方的な感情移入が出来ない「自らの意志を持つ対象(≠偶像)」を信頼しない日本人~

山本七平著『存亡の条件――日本文化の伝統と変容――』/第六章 虚構と偶像/偶像に感情移入――臨在感的把握/159頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【偶像に感情移入――臨在感的把握】さて、今までいろいろなことを記してきた。 世界のさまざまの文化圏にもとんだ。 しかし結局、人間は自らをどう自己規定するかについて、せんじつめればそれは二つしか方向がないということに結論づけられるであろう。<『存亡の条件』

2013-07-11 09:57:52
山本七平bot @yamamoto7hei

②一つは、セム的な一・歴史的一方向・終末論的見方に基づく自己規定であり、もう一つは、インド・アリアン的な現在の空間・自己の生死・無限と多の世界である。

2013-07-11 10:27:53
山本七平bot @yamamoto7hei

③タチャンブリ人の男女の役割の逆転や結婚・離婚の契約化を、歴史的な進歩と見るか、 または、 その時の無限の多である人びとの生涯のそれぞれ生き方で、それがどんなに多方向への変転であろうと、歴史的進歩といった概念の強制で規定さるべきことでない と考えるかである。

2013-07-11 10:57:59
山本七平bot @yamamoto7hei

④そしてそれでどう自己規定しようと、それはその人の意識と対象把握の問題にすぎないのである。 従って、ここで一番問題となり、そして最も大きな問題となるのは、対象把握の原則である。

2013-07-11 11:27:47
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤これは知識ではない。 ファウストの言葉を借りなくとも、知識をいかに集積したとて認識にはならない。 そして戦後一貫して忘れられているのが、実は「認識論」なのである。 一体われわれの対象把握の基本は何であろうか。 対立概念による把握であろうか。 勿論そうではない。

2013-07-11 11:57:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥われわれは常に、対象が矛盾して見えることを嫌い、時には本能的に、時には故意に、矛盾する部分を捨象してしまうのである。 その実例は、日本の近代史上限りなくある。 かつての対米観、一時期の対中国観等々は、すべて、矛盾しそうな部分は捨象しこれを一方向からのみ見る。

2013-07-11 12:27:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦私はこの見方を「臨在感的把握」と呼ぶ。 これを培ったのは恐らく仏教と儒教に基づく伝統であろう。 日本にはセム族の実に狂的とも思える強固な偶像禁止…排撃の歴史はない。 従って我々があらゆる対象を偶像を見る如く見て当然である。 そして偶像は対立概念でこれを捉える事はできない。

2013-07-11 12:57:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧これはセム的考え方の対極にある世界観と考えてよい。 対象の対立概念による把握はあくまでも他者を別人格と認める事だから、これとの関係は契約しかない。 そしてラテン語では契約とは平和の意味であり…それが当然なのだが、日本語の「平」にも「和」にも契約という意味はあるまい。

2013-07-11 13:27:46
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨「平」「和」は、対象を、対立概念を排して臨在感的に捉える場合、いわば仏像に対するように対した場合の心的状態のはずである。

2013-07-11 13:57:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩一体、偶像とは何であろうか。 それは一言でいえば、感情移入――宗教的感情移入――の対象であり、その意味では「宗教とは絶対帰依の感情」であっても、「契約=平和」の対象ではありえない。

2013-07-11 14:27:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪そして絶対帰依の感情を移入する対象は、そのものが自らの意志をもってはならないはずである。 いわば、仏像が自分の意志で舌を出したり立ち上がったりしては、感情移入はできない。 すなわちそれはそこに無意志で臨在していればよく、それ以上のものであってはならないのである。

2013-07-11 14:57:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫このような対象把握の方法が臨在感的把握であり、そして、日本人の対象把握の方法は、ほぼこれに尽きる。 そして、相手が自らの意志をもっていることを発見した瞬間、相手を信頼しなくなるのである――当然であろう。 それでは一方的な感情移入は不可能だから。

2013-07-11 15:27:45