「あまちゃん」を語る論者たち

@fumohiko さんと @YOSHIMASAKATAYA さんによる「あまちゃん」評、文体模写。
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ふも @fumohiko

ふとした思いつきなんだけど、「あまちゃん」を特徴ある文体の論者ふうに語ってみるというのは面白そうだ。たとえば蓮實重彦、見田宗介、村上春樹、司馬遼太郎などなど…。

2013-07-15 21:55:58
ふも @fumohiko

GMT47とはたとえば、六つとか四十七つとかの階級や地域の構成する沈黙の建造物ではない。GMTとは、ひとりひとりの「尽きなく存在し」ようとする人間たちの、無数のひしめき合う個別性、行為や関係の還元不可能な絶対性の、密集したある連関の相対性である。(見田風)

2013-07-15 21:59:32
ふも @fumohiko

いまA・Aは、現代日本の田舎に実在するひとりの少女である。「あまちゃん」はこのA・Aの生活史記録を軸として展開する。しかし「あまちゃん」はA・A論ではない。(見田風)

2013-07-15 22:05:07
ふも @fumohiko

まことに小さな海女が、アイドルになろうとしている。(中略)この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな三陸ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは二人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、ヤンキーになった。(司馬風)

2013-07-15 22:10:20
ふも @fumohiko

蓮實風の「あまちゃん」論は面白そうだ。誰かやらないかなあ。まず章立ては、「潜ること」「歌うこと」「踊ること」「グレること」「なまること」。

2013-07-15 22:15:18
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

年末の上野のアメ横あたりの雑踏で独り塩鮭を選んでいると、頭の中でふと「暦の中ではディセンバア」が響いた。(小林秀雄風)。アイドルの美は無い。うつくしひアイドルが居る。

2013-07-15 23:32:31
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

海女とはなにか、については、すでに天野夏が、普遍化した周到な定義を下している。夏によれば、海女の概念は次の3種に帰せられる。(吉本隆明)

2013-07-15 23:49:41
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

「観光海女」からアイドルまでのあいだには、一つの隔たりがあるが、万里の長城という訳ではない。寿司をつまむことがこのへだたりを無くす方法である。(毛沢東語録より)

2013-07-15 23:55:40
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

絶望は「ヤンキーに至る病」である。(キルケゴール)

2013-07-15 23:58:11
ふも @fumohiko

「そんな小さな頃から南部ダイバーになりたかったのね」と天野アキは感心したように言った。 浩一は肯いた。いくぶん用心深く。彼は自分のことを、水産系の学校や職場でしばしば見かける専門馬鹿のおたくだと彼女に思ってほしくなかった。でも結局はそういうことになるのかもしれない。(春樹風)

2013-07-16 00:14:42
ふも @fumohiko

「かなり一貫した人生みたいね」と彼女は言った。いくぶん面白がってはいるものの、そこに否定的な響きは聞き取れなかった。 「なぜそれが南部潜りなのか、南部潜りでなくちゃいけないのか、うまく説明できないんだけど」 アキは微笑んだ。「きっとそれが天職というものなんでしょう」(春樹風)

2013-07-16 00:17:38
ふも @fumohiko

春樹風「あまちゃん」はウザいな。笑

2013-07-16 00:18:43
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

先ほどから大きな宿題として、漁協長のいう雲丹500円という賃金労働制という資本主義把握の内実はいったいどういうものなのかということを残しておりますが、話の順序としてここで北鉄・海女カフェという問題を考えておきたいと思います。(廣松渉:あまちゃんと歴史の現実)

2013-07-16 00:25:45
片山惠仁 @YOSHIMASAKATAYA

フトマキは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の天野を除かなければならぬと決意した。フトマキには政治がわからぬ。フトマキは、村の踊り手である。笛を吹き、振付で遊んで暮して来た。けれどもNGの数に対しては、人一倍に敏感であった。(太宰治)

2013-07-16 00:49:33