柄谷行人『日本近代文学の起源』の(さまざまな)始まり

備忘録的に、TLに流れていたツイートをまとめてみました。
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中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

「物語」だけではなく、言葉遊びやパロディ、引用ももちろんパターン化した規則性に基づいたものですね。

2010-09-27 01:17:28
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

柄谷さんは、同じ時期の77から8年にかけて「東京新聞」で文芸時評をてがけています(『反文学論』)。そこで柄谷さんは、山口昌男の記号論のパターン化した図式を創作に代入する大江を執拗に批判している。この批判の対象は、のちに村上春樹に転じるわけですが(『終焉をめぐって』)、

2010-09-27 01:24:05
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

『終焉をめぐって』では、逆に大江(『万延元年のフットボール』)は評価されることになる。理由は、私小説的なものと物語的なもの、シンギュラーとティピカルなものを重ね合わせているから、ということです。

2010-09-27 01:29:16
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

文芸時評で中上の秋幸サーガを評価する際のロジックもまさにこれで、以降、柄谷さんの小説評価の大きな切り口になる。いずれにせよ、80年代に入ると蓮實さんが物語批判(『小説から遠く離れて』)をやりだすんだけど、柄谷さんもけっこう早くからやってる。

2010-09-27 01:33:44
@ttt_ceinture

私小説的なものと物語的なものの重ね合わせとして柄谷が評価したのは、中上の『化粧』についてのときもそうだったと思う。漱石を多言語的だから良し、という結論にしている論のように、このへんが柄谷の作品評価軸のリミットになっているように思う。大江の山口図式導入は『同時代ゲーム』だったかな。

2010-09-27 01:36:14
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

『起源』は心理的なもの(近代的な内面)の批判の書と読まれがちだけど、構造主義批判や物語批判の文脈にあるということは注意しておいていいと思う。

2010-09-27 01:36:15
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

また柄谷さんは日本=悪い場所批判をしているのではなく、これは西洋にはない視点だから利用しようぜ、という立場です。90年代に入ると(「他者」理論を導入したりモダンの理念をあえて称揚したりして)、批判的な言説が目に付きますが。

2010-09-27 01:39:52
齋藤 一 (Hajime Saito) @hspstcl

柄谷>連合赤軍事件(1972)、サイード>第三次中東戦争(1967)。彼らの批評は事件によって変容したともいえるかなあ。QT @sz6: //『意味という病』の「マクベス論」(連合赤軍批判のつもりで書いたと本人が述べているエッセイですが)で、//彼は構造主義批判に転じています。

2010-09-27 08:33:16
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

@ttt_ceintureさんの仰る通り、僕も、『起源』前後に確立した柄谷さんの批評軸、小説で言えば、中上に適用した「私小説的なものと物語的なものの重ね合わせ」という評価軸が、のちの柄谷文芸批評のリミットを内包していたと思っています。

2010-09-28 08:42:14
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

1970年代というのは、現象学的な「私」と構造主義的世界がペアとなり、前者から後者に緩やかに重心を移動させていった時代だといえます。その象徴的なシンボルが、柄谷さんにとっては中上健次だった。

2010-09-28 09:10:09
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

ある意味、大江が20年かけてやったことを、中上はほんの数年で畳み掛けるように(目に見える形で)やってのけた、ってことでもあるわけですが。

2010-09-28 09:10:59
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

大江は一定期間(シリーズ)ごとに、素材・構造・話法を組み替えて貪欲に物語を生産してきた。彼のキャラクター(と物語)は本質的に成長しない。『水死』の自己パロディ/構造的無限反復が好例。大江にとって自己を語ること(私小説)と構造主義的世界観(物語)は矛盾しない。

2010-09-28 13:34:01
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

むろん大江本人はまっとうすぎるほどリベラルな考え(私小説でも物語でもなくいわゆる西洋近代由来のリアリズムと相即的な)の持ち主なわけだけど、書く物はぜんぜん違うよね。

2010-09-28 13:53:12
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

一方、中上の場合は、私小説と物語が拮抗関係にある。西洋近代由来のリアリズム的世界観(戦後文学の「政治と文学」)が骨抜きされたコスモポリタン=ポストモダンな時代において、大江と中上は相応に必然的な展開を見せているとはいえます。

2010-09-28 14:06:35
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

大江は物語を語ることも私を語ることも同じこと(の裏表)だという発想だが、無時間的な物語空間に私小説を導入することは時間の不可避的な経過を招き寄せることであるというのが柄谷=中上の発想です。その結果、逆説的な形にせよ、エディプス構造(去勢体験)を物語に穿つほかなかった。

2010-09-28 14:21:01
中沢忠之@インボイスやめちゃえ @sz6

ちなみに、中上が虚構としてであれ起源(後戻りできないあの日あの場所)にこだわった一つの限界を、阿部和重は無数の「日付」を散在させることで踏襲しつつ乗り越えようとしました。阿部氏もこの意味で物語と私小説の日本近代文学的な「起源」を問うている作家ということも出来ます。

2010-09-28 14:31:21
@ttt_ceinture

@sz6 なんだかあの論法には中途半端なものがあるという気がしましてね。おそらくは柄谷以前の文芸批評の議論を集結させたような側面もあるのでしょうが…。漱石こだわりは江藤・吉本など先行世代に特徴的な現象でもありましたし。

2010-09-28 20:05:03
@ttt_ceinture

@sz6 90年代末ぐらいになって小説の動向に批判的になる際、「構成力はある、しかしそんなものは娯楽小説でもやっていることだ」というふうに議論が転じてしまったような気がするんですが、この場合この動きはどういうふうに位置づけられるのだろう。

2010-09-28 20:06:34
@ttt_ceinture

@sz6 『化粧』評価においての「私小説的なものと物語的なものの重ね合わせ」という評価は、(『化粧』が二種類の短編が交互に繰り返される断章的な作品だったのもあって)折衷的な評価だと思い、半端なものを感じたような…。まあ、柄谷の脱構築扱いはそうした自分の身振りの陰画なんでしょうね。

2010-09-28 20:09:56
@ttt_ceinture

ちなみに先日の67-77年の柄谷年譜ツイートで«Interpreting Capital»(1976, 未公刊)ってのが柄谷がド・マンに読ませるために書いたというもの。単行本にはたしか入ってないんだったかな。

2010-09-28 20:15:26
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

ちなみに、明治国家の特質と限界といえばそれこそ純文学/文芸批評がそれを体現するジャンルだったわけですが、それゆえに、明治的な(キャッチアップ型?)モデルが高度経済成長とともに限界を迎えた1970年代に文学は終わり、それを体現したのが柄谷行人だった、というのがぼくの文学史観です。

2010-10-07 01:58:38
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

だから、柄谷行人の「日本近代文学の起源」(日本近代文学の無根拠性を暴く本)の出版が、村上春樹および新井素子のデビューとほぼ同時期だったことは、日本文学史にとってきわめて重要なことなのです。水村美苗は要は「明治すごかった、明治に戻りたい」と言っているだけにすぎない。

2010-10-07 02:01:19