Togetter/min.tを安心してお使い頂くためのガイドラインを公開しました。

【三国志】蜀における仮節と魏延の役割

蜀において節を仮すのがどういうことであったのかということに関連し、諸葛亮の作った軍と、そこでの魏延の役割を考えた
14
Jominian @Jominian

蜀において節を仮された例はそもそも少ないな。劉備即位時に諸葛亮と李厳が、231年に魏延が、諸葛亮の死んだ直後に蒋琬と呉壱が、その後に呉班が続き、興勢の役で費禕に、次いで鄧芝が仮され、牛頭の戦いで姜維に、陳祗が死の前後のどこかのタイミングで胡済と張翼と廖化が。こいつらだけか

2013-07-31 12:50:51
Jominian @Jominian

意外にも、馬忠と王平は節を仮されていない。督漢中で節を仮されたのは呉壱と胡済だけか。南中都督は節を仮されない

2013-07-31 12:53:56
Jominian @Jominian

魏延が節を仮されたのも、督漢中の時ではなく、前軍師の時だ。鄧芝は督江州として節を仮されている。鄧芝が督江州の時、呉との関係はどうだったかな?それより前、漢中で船を作った時には少し緊張してたけど

2013-07-31 12:58:39
Jominian @Jominian

胡済へ節を仮したのには、姜維の意図が見え隠れする。しかし、既に成都に引っ込んでいた張翼と廖化に節を仮すのは、姜維の力を削ぐ意思がありそうだ

2013-07-31 13:01:07
Jominian @Jominian

興勢の役で文偉に節が仮されたのは、他に節を仮されている人間で対応できる奴がいなかったのが大きいな。

2013-07-31 13:03:30
Jominian @Jominian

恐らく、蜀における仮節とは、複数の中央軍を指揮するために必要な権限だったんだろう。督漢中やらは、その地の地方軍を指揮する権限に過ぎないのではないか?逆に言えば、彼らに節が仮されないというのは、地方軍だけで対処できる状況だったということだ

2013-07-31 13:06:14
Jominian @Jominian

呉壱が仮節となったのは、諸葛亮の死後の混乱が収まらない状況で魏が攻めてきた場合に、呉壱が漢中軍だけで対応できない状況が想定されたからだろう。呉班はよく分からない。いつなったのかも分からないし

2013-07-31 13:10:03
Jominian @Jominian

仮節という点でも、諸葛亮軍における魏延の役割の重要性は類推できる。彼が前軍師だった理由も

2013-07-31 13:11:26
Jominian @Jominian

蒋大司馬失脚後、姜維に節が仮されず、蒋大司馬も漢中から引っ込んだことは、当時の蜀に姜維に涼州を攻略させる気なんて無かったことを示している

2013-07-31 13:16:59
Jominian @Jominian

蒋大司馬失脚後に、大将軍の文偉に節が仮されなかったのは、依然として、「総司令官は蒋大司馬である」という声が強かったからではないだろうか?だから、文偉は漸進的に権力掌握を進めるしかなかった。興勢の役は、文偉にとっては渡りに舟だったのだろう

2013-07-31 13:31:47
Jominian @Jominian

馬忠は張嶷を従えている。つまり、督某は、その地の太守が率いる地方軍を指揮する権限だったんだろう。これは魏の都督の制度とは異なっていると考える。督漢中は、麾下の郡が漢中郡しかない。一人親方みたいな感じ

2013-07-31 13:42:45
Jominian @Jominian

督漢中胡済が漢寿に移動した例を見ると、漢中太守だけじゃなく、梓潼太守も督漢中麾下だったのかもしれない。

2013-07-31 13:45:38
Jominian @Jominian

蜀の節については、もうちょい色々考えないとな。向朗の件とかもあるし

2013-07-31 15:06:04
Jominian @Jominian

帰ってきて調べたら、李恢も節を仮されていたことが分かった。すっかり存在を忘れていたようだ。李恢に節が仮されたのは劉備の時代なので、張飛や馬超と同列ということになるのか。劉禅時代の節と同じ意味と役割だったかは検討する必要がある

2013-07-31 22:32:12
Jominian @Jominian

節を仮された魏延は李厳を弾劾する上表で使持節とされている。蜀において、上表等で仮節と表記された例はなかったと思う。杜瓊や向朗、諸葛亮のように、使持節あるいは持節と表記される

2013-08-01 11:12:42
Jominian @Jominian

節を仮されたことについて、その表記による上下の別がない以上、魏延が使持節とされていることを以って、他の節を仮された人物よりも重きを為していたと見るのはおかしい。しかし、節を仮されたことそのものが、当時の魏延が非常に重きを為していたことを示しているだろう

2013-08-01 11:18:18
Jominian @Jominian

うーん。蜀の軍制については、解釈を現状より更に変えなきゃならないな。まあ、微調整って感じだけど

2013-08-01 11:27:49
Jominian @Jominian

諸葛亮は魏延を厚遇し過ぎた。それが後々の火種となっている以上、そう述べざるを得ない。しかし、魏延の立ち位置を考えると、諸葛亮が彼を頼みにしていたことは理解できるし、他に人がいない以上、諸葛亮による厚遇も仕方ない。恐らく、姜維がもっと早くに、史実の魏延同じ位置にいられたら良かった

2013-08-01 17:18:36
Jominian @Jominian

他に魏延しか居なかったことが、諸葛亮の作ったシステムの限界だな。

2013-08-01 17:20:19
Jominian @Jominian

蜀の軍制の話は、完全にまとまってないから話してないだけなんだが、勿体振ってしまっているので、そのうち話さなきゃならない

2013-08-01 17:31:43
Jominian @Jominian

諸葛亮が己の死期を悟ったのはいつなのだろうか?

2013-08-01 17:42:53
Jominian @Jominian

五丈原の戦いは、史実の戦い方が諸葛亮の望んだものだったとはどうも思えない。時間をかけ、よく練られていたであろうに、あの小さな戦場に軍を押し込んだのは理解しがたい。また、魏延の使い方も間違っているし、あの使い方が諸葛亮の意思とは到底思えない

2013-08-01 17:51:10
Jominian @Jominian

ある程度の裁量を持たせることのできる駒として、諸葛亮は当初趙雲を用いていた。しかし彼は老齢だったが故、彼に代わるものとして馬謖を起用した。その馬謖は失敗し、諸葛亮は魏延を駒として重用せざるを得なくなった。魏延は一定の成功を収め、趙雲の代わりを務まるに足る人物となった

2013-08-01 20:45:04
Jominian @Jominian

諸葛亮の軍には中軍と前軍しかなかった

2013-08-01 23:04:50
残りを読む(34)

コメント

Jominian @Jominian 2013年8月5日
まとめを更新しました。
0