「シュニトケとの対話」 ― ドイツ・ユダヤ・ロシアのはざまで

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直立演人 @royterek

「大祖国戦争」でナチス・ドイツと史上最大の地上戦を戦い、史上最多の犠牲者を出すことで辛くも勝利したロシアでは、いまだに反ユダヤ主義は根強いものの、反独感情のようなものが根づくことはなかった。これはちょうど、日本では在日差別が根深いのに、反米感情がほとんど残らなかったのと似ている。

2013-08-02 02:08:31
直立演人 @royterek

独ソ戦の最中にあって、ソ連国内では、反独感情よりも反ユダヤ的感情の方がひどかったという証言を、ソ連の作曲家であるアルフレット・シュニトケ(母親がヴォルガ・ドイツ人、父親がドイツ系ユダヤ人)がしている。この驚くべき証言について、だいぶ前に紹介していたので、改めてまとめておきます。

2013-08-02 02:14:51
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』(A・イヴァシキン著・編、秋元里予訳、春秋社、2002年)という本がある。ソ連の前衛作曲家アルフレット・シュニトケとの対話を記した本である。シュニトケの生い立ちからは、ドイツ、ユダヤ、ロシアという三つの民族文化的ファクターの数奇なる絡み合いが浮き彫りになる。

2011-08-16 04:53:54
直立演人 @royterek

今この本がすぐ見当たらないので、かつて独自に訳出した文章の抜粋をここに引用してみたい(日本語訳があるのを知らずに、インターネット上の原典からわざわざ訳してしまったもの)。シュニトケは、ドイツ、ユダヤ、ロシアの三者間に横たわる一筋縄ではいかない因縁を一身に背負った稀有な事例である。

2011-08-16 04:58:22
直立演人 @royterek

当然ながら、この文章は、たんにドイツ、ユダヤ、ロシアというローカルな問題に留まらず、国家、民族、文化、アイデンティティとは一体なんであるのか、ということを雄弁に物語っているように思われる。

2011-08-16 05:00:14
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』①:独ソ戦の際に「ドイツの血」のために不快な思いをしたのではないかという質問に対し:「その質問については単刀直入にお答えできます。ひどく不快な思いをしました。ただし、自分の「ユダヤの血」によっても同じ程度不快な思いをしましたが。→

2011-08-16 05:06:42
直立演人 @royterek

→私にとって、1941年の戦争は、自分がユダヤ人でありドイツ人であるということを同時に意識させられた瞬間でした。私は母親によればドイツ人であり、父親によればユダヤ人です。このことをそのとき思い知らされました。表ではユダ公呼ばわりされました。→

2011-08-16 05:07:54
直立演人 @royterek

→一方、戦争になっても、祖母はドイツ語しかしゃべれませんでした。そんなわけで、あの遠い41年以来、私の中で、この不快な問題に関する敏感な意識が芽生えたというわけです。」

2011-08-16 05:08:52
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』②:「私には自分の前にぶらさがっている問題がつねに見えていた。答えを見つけようとしても、いつまでたっても見つからない。この問題は、自分が血統ではロシア人ではないが、ロシアで全生涯を生きながら、自分がロシアにつながっていることに関係している。→

2011-08-16 05:11:28
直立演人 @royterek

→一方で、自分が作曲したものの多くは、なんらかの形でドイツ音楽とドイツ的なるものに由来する論理とつながっているのだが、そんなことをことさらに望んだことはなかった。」

2011-08-16 05:12:17
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』③:「私は戦争の開始とともに自分がユダヤ人であると感じ始めた。もっと正確に言えば、戦争が始まるや否や、すぐに自分が同時にユダヤ人でもあり、ドイツ人でもあるように感じた。ロシアでは、反ユダヤ主義は戦争の開始とともに生まれた。→

2011-08-16 05:14:48
直立演人 @royterek

→それ以前に表でユダヤ人と罵られた覚えはない。それは1941年の秋に初めて起きた。まったく奇妙で不条理なことだ。とつぜん現実が私を占拠した。一滴もロシア人の血を持たないのに、ロシア語で話し、ロシア語で考え、ロシアに暮らしているこの私を。→

2011-08-16 05:17:01
直立演人 @royterek

→しかも、自分の本当の血の半分は、自分の中で芽生えることはなかった。私はイディッシュ語を知らない。それどころか、自分の顔つきやその他の痕跡のために、それとかかわる一切の不都合を経験することになったというのに、そんなものがあるのだという感覚さえもまったく感じることはなかった。」

2011-08-16 05:19:41
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』④:「戦争は、真っ当な論理に反して、民衆が無意識下で抑圧してきたものすべてを呼び覚ました。とくに反ユダヤ主義を。私にとって、戦争は二重の不快をもたらした。私はユダヤ人として不快な人間になったが、同時にドイツ人としても不快な人間になった。→

2011-08-16 05:21:42
直立演人 @royterek

→なんという不条理! 私は、半ドイツ人であり、半ユダヤ人である者として、二重の異邦性を感じるようになった。表面的に言えば、それは、私がユダ公であることに反映されていた。表ではどんな男の子たちにとっても、私はユダ公だったのだから。→

2011-08-16 05:26:57
直立演人 @royterek

→だが、私はそういった外部の状況では、ときとしてドイツ人でもあった。戦争が終わったとき、私は概ねドイツ人ではなくなったようだったが、ユダヤ人ではあり続けた。そしてそのことは終わらなかったばかりか、むしろ強められた。公然たる反ユダヤ主義がなくなったにもかかわらず。」

2011-08-16 05:30:07
直立演人 @royterek

『シュニトケとの対話』⑤:「1950年に16歳になったとき、パスポートを受け取ることになっていた。私は自分で自分をなんと自称するかを決めなければならなかった。そのとき、私はドイツ人ではなくユダヤ人と自称することにしたのだが、そのことに母が腹を立てたことを覚えている。→

2011-08-16 05:31:56
直立演人 @royterek

→自らのユダヤ性を「洗い流す」ために、ドイツ人と自称することは、私には恥辱のように思われたのだ。で、それ以来、私は父方にしたがって、ユダヤ人とカウントされている。」

2011-08-16 05:32:49
直立演人 @royterek

ちなみに、『短縮版ユダヤ百科事典』(Краткая еврейская энциклопедия)のシュニトケの項目には次の記述がある:「パスポートにはユダヤ人として登録されていたシュニトケはカトリックに改宗したものの、ロシア正教の儀式に則って自分を葬るようにと遺言した。→

2011-08-16 05:04:29
直立演人 @royterek

→彼はエキュメニズム思想に傾倒しており、それは、正教、カトリック、プロテスタント、ユダヤの礼拝にそれぞれ対応するさまざまな音調体系の相互作用に基づいた交響曲第四番に反映されている。」

2011-08-16 05:04:38
直立演人 @royterek

『シュニトケの対話』の補足:シュニトケの母方は18世紀のエカテリーナ二世の時代にドイツからロシア帝国のヴォルガ川沿岸地域に集団移住したドイツ人の家系である。このドイツ系移民の末裔のことを「ヴィルガ・ドイツ人」と言い、独ソ戦のさなかに「敵性外国人」として強制移住させられた。

2011-08-16 11:59:30
直立演人 @royterek

「独ソ戦勃発後、1941年8月28日、ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国は廃止され、ドイツ人住民のほぼ全員が、西シベリアのオムスク州、アルタイ地方、ノヴォシビルスク州、ケメロヴォ州および中央アジアの今日のカザフスタン等に追放された。・・・

2011-08-16 12:03:20
直立演人 @royterek

・・・1955年末、ドイツ人に対する法的な制限は解除されたが、故郷への帰還は禁止されたままだった。1965年にはスターリンによる追放令の無効が宣言されたが、自治共和国の復活にはつながらなかった。・・・

2011-08-16 12:04:13
直立演人 @royterek

・・・1980年代以降、中央アジアからロシア、ドイツへのドイツ系ロシア人の移民が相次いだ。のちに大量移民を懸念した統一ドイツ政府は、ヴォルガにドイツ人自治区を復活させることをロシアに提案した。・・・

2011-08-16 12:05:54
直立演人 @royterek

・・・しかし、現地ロシア人住民の反独感情とドイツ人のロシア各地への定住の結果、自治区復活問題は立ち消えになった。大量移民により、在カザフスタン・ドイツ人は、1989年の約100万人から25万人にまで減少した。現在、ドイツ系を部分的に含む人々は150万人いる」(wikipedia)

2011-08-16 12:06:19