武田騎馬隊と織田との戦いの話

@kurmacfさんによる長篠の戦い http://togetter.com/li/291555 から続けて読むといいかも
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MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

まあ改めてまとめておくと、武田騎馬隊というのはいないともいえるし、いるともいえる。これは研究史の変遷によるもので、戦前の日本戦史・大日本戦史とへるうちに、武田軍は大半が騎馬、となってしまった。これは明白に間違い。

2013-04-18 16:52:08
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

研究の進展は今世紀に入ってからで、武田・北条・上杉といった東国の戦国大名は兵種別の部隊編制をしていたことが明らかになった。だから武田にも騎馬隊はいる。ただし珍しいものではない。

2013-04-18 16:55:09
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

しかし東国の戦国大名の騎馬部隊は、西国の大名である織田・徳川には脅威に映った。騎馬部隊の突撃戦術は馬入りと呼ばれたが、具体的な内容はまだ不明。いずれにせよ、長篠では馬入りに対抗するために馬防ぎの柵を作った。

2013-04-18 16:57:06
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

しかし、後詰めの援軍に来たはずの織田勢が防備を固める動きに出たため、勝頼は敵は弱気になっていると判断。これが大きな判断ミスとなる。織田方も、勝頼が打って出たらいいな、くらいだったのが実現した。実はこれが織田と武田の始めての直接対決なので信長は慎重に、勝頼は強気に動いた。

2013-04-18 17:00:33
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

織田としては、勝頼が鳶の巣山に籠られたら手出しの仕様がないと危惧していた。ところが勝頼は打って出て、鳶の巣山襲撃、長篠合戦という流れとなる。

2013-04-18 17:01:55
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

長篠での流れだが、戦闘はおおよそ半日かかっている。したがって鉄砲で武田勢がなぎ倒された、というのは間違い。長篠合戦図屏風をみるとわかるが、織田の鉄砲が狙ったのは、武田側の鉄砲隊である。ようするに援護射撃部隊を打ち崩したわけ。

2013-04-18 17:05:33
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

武田側は少ない兵力(これは実は実証されていない)で、守りを固めている敵を攻撃したので兵力を徐々に消耗し、撤退を決意。この撤退戦で大損害を出してしまう。

2013-04-18 17:10:32
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

それとよくでる鉄砲の流通ルートの話だが、堺経由、あるいは国友鍛治の存在で織田が圧倒的優位であったとされるが、これも根拠はない。

2013-04-18 17:12:16
HI @tateita_HI

@kurmacf 配陣を見ると、織田・徳川は信忠・信康等の相当数の部隊を後方に置いているので、武田側としては兵力の劣勢をそれ程、認識していなかった可能性があります。

2013-04-18 17:15:03
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

というのも、北条が百姓に軍事動員をかける際、できれば鉄砲をもってこいといっている。つまり百姓でも金さえあれば鉄砲の入手は可能だった。そのうえ、信濃と越後の国境では、猟銃の音が武田勢来襲と勘違いされたという喜劇まであり。それくらい鉄砲は幅広く流通していた。

2013-04-18 17:15:51
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@tateita_HI 戦国時代の合戦の陣地配置は、基本的に根拠はないです。

2013-04-18 17:17:24
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

問題は弾薬で、この不足には悩まされた。まず、品質が劣化した銭を集めて弾薬に鋳造しなおすということが早くから行われていた。長篠後の反省では、鉄砲強化がよく注目されるが、弾薬を持ってくる量を数字で義務付けるという改革も行っている。

2013-04-18 17:20:09
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@Jiraygyo まだよくわかっていませんが、相当量が流通ルートにのっていたと思います。弾薬とあわせて、ないと鉄砲なんてただの鉄くずですから。

2013-04-18 17:23:35
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

こうした百姓でも鉄砲が手にはいる、という状態が、江戸時代の大名が持っている鉄砲の数より、村にある猟銃のほうが数が多い、という状況の前提になる。

2013-04-18 17:25:04
HI @tateita_HI

@kurmacf 信長公記にある信長の当初の陣場である極楽寺山や信忠の新御堂山は、通説では後方にあったと思いましたが、それは間違えということなのでしょうか?

2013-04-18 17:33:17
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

.@Jiraygyo 武田家は、1555年に鉄砲300挺を最前線の城に送り込んだ実績のある家ですよ。

2013-04-18 17:35:36
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@Jiraygyo たぶん『北条五代記』あたりに種子島より早く鉄砲が伝来した話が載っていて、鉄砲伝来と整合性をつけるために中国産の…となった話だと思います。

2013-04-18 17:47:44
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@Jiraygyo ただ相模は薩摩と直接交易していたはずなので、鉄砲の流入じたいは意外と早いはずです。

2013-04-18 17:53:52
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

織田信長と足利義昭の関係。最初は蜜月だったが義昭が傀儡に耐えかねて…という考えは白紙に戻さないと見誤る。元亀二年に武田信玄が義昭に信長の出頭ぶりを批判しつつ、勝頼への一字拝領を求めたところ、実現しなかったという事実は通説からでは解釈できない。つまり義昭は信玄の要求を断ったのだ。

2013-05-23 00:44:28
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

実は足利義昭にとって、織田信長の存在は欠かせないもの。連合政権と解釈すると、様々な事象が整合的に説明できる。義昭が信長と手を切る決断をしたのは、三方ヶ原で武田信玄が徳川家康に大勝し、このままでは自分の身が危ういと判断した結果。つまりギリギリまで義昭は信長陣営のトップだった。

2013-05-23 00:48:25