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「けち」とはまさか吝嗇のケチです?もしそうならそこ道祖神さんとか家の中に祀ってないかしらね。道祖神祭りへの寄付とかケチると子どもらに道祖神を投げ込まれる、という風習が伊豆相模は結構あったのですよ。 RT @izuimaihama 稲取では、けち、からす、等あるみたいです!
2010-11-10 20:26:47@hunterslog 見高は大体、昔の人の名前や昔の商売から取った所が多いです、稲取では、けち、からす、等あるみたいです! 又探しときます。
2010-11-10 07:14:00@cqjin もっともあたしが公開したところでそんな大袈裟なことにはなりませんからあまり心配するようなこともないとは思いますが。
2010-11-09 22:17:04@cqjin あたし如きに価値云々ははかれませんよ(笑)。昔のことがどんどん消滅して行く今、まずは「残すこと」が「価値」ですかと。サイトはそのままテキスト頂けたらこちらで校正し、非公開で見ていただいてよろしかったら公開、という感じでしょうかと。
2010-11-09 22:15:28@hunterslog サイトとして公開ってどんな仕組みですか?明治人が書いたので、かなり再度の推敲が必要になります。たとえば、屋号や氏名等の公開を考してよいかなどを考えなくてはなりません。まずは、この手記が価値があるかを貴方様に見ていただければと思います。愚作だったりして!
2010-11-09 22:03:51@cqjin おーそうですか。それは何よりお父様も嬉しいでしょうね。でもちょっと勿体ないですね。大変差し出がましくて恐縮ですが、あたしの方でサイトとして公開したらまずいですか?
2010-11-09 21:48:08@hunterslog 出版、とんでもありません。親の供養にと、手作りで製本をして親戚に配ろうかと思っております。ご迷惑でありませんでしたらPCアドレスをお教えいただけましたら、完成後送付いたします。内容は「板垣信方の姫が大鍋に」「小鍋神社の伝説」「湯ケ野領主西川藤四郎」などです
2010-11-09 21:31:53はい、写真見えてます。ありがとうございます。河津の伝説の電子化!これは大変期待させていただきます。電子出版なのかしら。完成の暁にはぜひ教えて下さい。RT @cqjin 延命寺に残る山田氏の子孫?のお墓の紋章です。 http://bit.ly/aHQaIL
2010-11-09 21:18:39@hunterslog ご参考になったか心配でした。親父は当地の伝説など数テーマ残しており、それを私が電子化しようとキーボードをたたいております。延命寺に残る山田氏の子孫?のお墓の紋章です。 http://bit.ly/aHQaIL 写真添付を始めてしました届きましたか?
2010-11-09 21:11:43@cqjin いやいや、あたしはまだ歩き回って「何をとことんやったら当り引くか」と物色している(笑)、研究者としてはオリエンテーリング段階ですから。いろいろとご教示お願い致します。
2010-11-09 20:58:34その直後の十六世紀初頭に小田原城(伊勢氏小田原?)が落ち、城主の弟一族が落ち延びて山田姓を名乗り上佐ヶ野を支配、ともあり、清水氏との関係が興味深いですね。RT @cqjin 清水吉政という領主がいて永正18年三口神社を建て、領地の統治に努力していました。
2010-11-09 20:54:19はー清水という領主さんがおったのですね。三口明神は謎だったので「永正18年三口神社を建て」という記述はありがたいです。大体その頃に大きく戦国武将系の手が入っているようですね、あのあたりは。RT @cqjin 筏場三口神社について親父は『その頃筏場には清水吉政という領主がいて
2010-11-09 20:51:45@hunterslog 研究レベルの高さに脱帽しております。筏場三口神社について親父は『その頃筏場には清水吉政という領主がいて永正18年三口神社を建て、領地の統治に努力していました。開拓地の上佐ケ野も当然その支配下におかれました。』と書かれています。私にはチンプンカンプンですが!
2010-11-09 20:31:24しかしこれはお父様の調査が残っているのですか。しかもタイトルからすると上佐ケ野以外も?あ、上佐ケ野は地域の親切なガイド看板とかありましたが、あれも同じお父様のお仕事かしら。RT @cqjin 親父の残した「伝説を訪ねて~上佐ケ野の巻」手記
2010-11-09 19:55:52おー、早速ありがとうございます。やはり筏場小川(三養院付近)の三島明神が二手に分かれたということで良さそうですね。いや、今日これからあげますが、これ結構重大なもので。RT @cqjin 筏場小川にあった三島明神を上佐ケ野に移したものと思います。
2010-11-09 19:52:07これは面白そうですね。でも外の人間が知るのは難しそうだ。なにか「これは」というのがありましたら教えてください。RT @izuimaihama 屋号は面白いので結構好きです!特に稲取の屋号は変わってます。
2010-11-09 19:50:00@hunterslog [省略]筏場小川にあった三島明神を上佐ケ野に移したものと思います。(註、某氏に依れば逆川の三島明神も小川より移したものという)』 改めて親父の手記を読んでみますと筏場から逆川でした。ごめんなさい。私はお察しの通り河津出身で「毎日が日曜日族」です。
2010-11-09 16:12:23@hunterslog 親父の残した「伝説を訪ねて~上佐ケ野の巻」手記によりますと『上佐ケ野の三島明神に残る棟札に天文2年代官清水右京亮の名前が出ています。[省略]清水家は代々三島明神に帰依し信仰が厚かった。 追伸いたします⇒
2010-11-09 16:04:50ちなみにこれら姫型(ないし僧形)単座道祖神像への影響をあたしが勝手に考えている、八丈島の優波夷命の神像(室町期)は、右手に剣、左手には宝珠ないし桃の実を持っている。宝珠を持つ道祖神の像は(両手で持つが)半島に非常に多い。
2010-11-08 21:25:03ただしやはり仏教との融合も強い。伊東の湯川ではそもそも道祖神さんの呼称が「オンゾンさん(お地蔵さんの意か)」なのだそうな。とは言っても牛頭天王なりお不動さんなりを模した道祖神というのもないのでやはり貴重な例ではある。
2010-11-08 21:24:17.@omi_5002 さんに教えてもらった、片瀬の「剣をもつ道祖神」に関して。伊東の道祖神を網羅した資料でも50件中1件に「剣か?笏か?」とあるだけだった。非常に珍しいタイプであることは間違いない。
2010-11-08 21:22:28.@izuimaihama さんに見高に「サイノカミ」を屋号とする家があると教えてもらったが、伊東の宇佐美阿原田に同じ例があった。屋敷内にサイノカミさんが置かれていたので屋号となったという。ちなみにこの宇佐美のサイノカミさんは伊東唯一と言って良い「双体道祖神」だそうな。
2010-11-08 21:20:06@cqjin これはまた伊豆出身の方なのかしら。いやいや、こちらが教えていただく方です。あたしは文面がエラそーですが伊豆調査開始三ヶ月です(笑)。河津三島神社に関してそうそう急速な展開はないですから、急がずお暇な時にでも宜しくお願い致します。
2010-11-08 20:55:57@hunterslog @renho_sha 親父の残した郷土史文献に、それらしき内容がありましたのでツイートした次第です。小生も興味がありますので今後ご指導をいただければ幸いです。明日、親父の残した内容を送信いたします。今日は酒がまわってしまい休みます。
2010-11-08 20:50:48